投稿者「近藤 泉」のアーカイブ

平和を語り継ぐということ

近藤 泉

◆人は何かをする為にわざわざ生まれてきたのだろうね、とよく子ども達と話します。

私は、731部隊の訓練を受けた特攻隊の生き残り(実戦はしていません)の父、広島の爆心間近で生き残った特別被爆者の母の元に生まれたので、自分で「平和の申し子」だと信じています。加害者の立場(実際に加害はしていません)と被害者を両親に持つなんて、まるで何か決め事があって生を受けたとしか思えないからです。

◆私は、子ども達が小さい頃から共にニュースを見るようにし、色々な人との出会いを 作るよう努めてきました。また中国や沖縄・広島に連れて行き、人が為してしまった悲惨とこれから人が為すべきことを、その子の性格を大事にしながら語り合ってきました。

親の考えをおしつけ過ぎるのはよくないのでは、と心配する友人がいます。しかし、それは杞憂でしかありません。子ども達は親よりも真剣に歴史を学ぼうと し、親よりも深く人間の本質を感じ取っていると思うからです。「本物」の前では親の言葉はほんのきっかけに過ぎず、子ども自らが眼にし、耳を傾けたものを慎重に心に刻んでいっている様子は神々しささえ感じます(かなり親ばかかもしれませんが)。親であってもそれを尊重し、一人の人として応援していきたいと 常々思っています。

我が子は、社会から預かった「未来」だと信ずるからです。

◆昨年・今年と、小・中・高・大の子ども達を中国に連れて行くことができました。社会 人の長女は、かつて中国で幼稚園を2年間経験しました。

中国を訪れて子ども達にとって何が一番良かったかと言えば、一つは「報道や学校教育は、ほんの一部分 しか伝えてくれない。」事実を学んだことです。実際に出会った中国の人が日本人である自分に、まるで近所のおじさんかおばさんのように暖かく接してくれる ことにとても感動していました。目の前にいる人を信ずることの大切さ、民間外交という意味を肌で感じ、広い世界も一対一の人の信頼で成り立っていることを 知りました。

さらにもう一つ良かったことは、歴史を学ぶことの大切さが分かったことです。教育の場で与えられる内容が極めて表面的なことを知り、歴史の勉強が出来事 を覚えることではなく、その背景や人々の生きざまを慮り、歴史から何を学ぶのかを「自ら考える力」をつけることだと子ども自身が気づいたことです。

そして親以外のおとなの人が、自分達に物を教え、育ててくれようとしていることも知りました。これは、中国で出会った方々のみならず、 昨年の当研究所訪中団のみなさまや今夏炎暑の広島で60年前の母の足跡を訪ねる旅に同行して下さった事務局の竹本さんが、熱い志と愛情を子ども達に注いで 下さったことに深い感謝の念を禁じえません。

◆信ずれば、道は必ず拓いていく——そんな言葉が浮かんできます。平和を語り継ぐということは、けしてむづかしいことではない、子どもは自ら太陽の光に向かって伸びていく力を持っています。親は自分の信ずる道を誇りを持って歩いていくのみです。

歯のはなし

近藤 泉

味覚の秋にちなんで「歯」のことについて、つれづれなるままに・・・。

◆この頃、ずっと気になっていることがあります。

テレビに出てくるアナウンサーやニュースキャスターの歯並びの悪さです。矯正歯科の広告で、欧米の常識では歯並びが悪いとその人の品性までが疑われる、と ありました。その真偽は分かりませんが、ニュースを見ていてそのあまりの不揃いに、この方の親御さんはわが子の歯をあまり覗かずに育てたのかな、ととても 気になります。

今は成人してからでもきれいに治り、歯の裏側から器具をつけ外見にも目立たない矯正があります。少なくともアナウンサーなど人前に出る職業を目指す方は、お金を貯めてでも歯のお手入れをしてはいかがでしょう。

◆歯並びの悪い子ども達も多くなって来ていると感じます。

わが家の息子の歯並びが気になり矯正歯科に見てもらったところ、歯並びは大したことはなく噛み合わせの面で重大な問題が見つかり、顎の骨を削らなくてはな らないところでした。中学生で永久歯が揃い骨の成長が落ち着くちょうどいい時期にあることから、矯正が見事に仕上がりつつあります。歯と顎がこんなに自在 に動くものだということに驚嘆しています。顎の骨まで移動させる本格的な治療に保険の適用がないのは合点が行きませんが、子どもに高い服を着せたり英才教 育をするお母さん達も、まず正しい歯並びをわが子にプレゼントしてあげてほしいとつくづく思います。

子育ては十人十色、相手あってのことですから一律には行きません。しかし、歯が生えて来る4‐5ヶ月の乳児期から永久歯が生え揃う中学生 までの間の「成長に応じた歯の衛生」は親が確実に形に残してやれる子育てです。それは生涯にわたる財産であるからこそ、命名や教育と同じくらい重いのでは ないでしょうか。

◆一日も休まず一生使い続ける「歯」。

歯が健康であるからこそ物を消化し、健康な体を維持することができます。

そればかりか歯は味も感じることができます。差し歯や義歯をしたとたん、食べ物の美味しさが半減してしまうのです。経験のある方にはご理解いただけると思います。他人の目を引き付ける「歯」。口元の美しさばかりでなく表情や発音にも関わってきます。

子どもと親が顔を見合わせ、たくさんおしゃべりする。子どもがにっこり白い歯を見せて笑う。子どもの笑顔を見ながら子育てできたなら、歯並びにも敏感になり、もしかすると美しい日本語をうっとり聞かせてくれるアナウンサーが増えるのかもしれませんね。

続・修学旅行と平和学習

近藤 泉

◆二学期が始まり、学校ではスポーツ、芸術、学問の発表の場など様々な行事が催され、子ども達はもとより親達も楽しみな季節となります。そして修学旅行の季節でもあります。

財政的な理由により修学旅行の行き先から広島・長崎や沖縄がなくなった現状は前に投稿しました。修学旅行に行かないからと「平和学習」まで消えてしまうの は、日本の教育行政の姿勢を象徴しているようです。所詮「平和学習」は意識の高い現場の先生方の努力で築かれたものであって、教育行政の立場からは教育に とっての「必須科目」ではなかったということなのでしょう。今年も来年度に向けて日本の過去の過ちを隠す教科書を選定する動きが各地で見られました。修学 旅行の現状が「平和教育」を避けようとする側に風を送ることにならなければよいなと危惧しています。

◆子どもは私達の未来社会からの預かりもの、何十年か経てば日本や世界を動かす存在です。

街なかで出会うその子ども達が作る社会で、私達大人は生きてゆくことになります。私達大人は子ども達に、自らの生きる意味を見つめ平和を考える教育を用意し、すべての人間の尊厳と生きる権利を奪う戦争の歴史を学ぶ機会を充分つくって来たでしょうか。自殺や殺人への憧れ、いじめ、自傷、バーチャル世界へののめり込み、ひきこもり、ニート、等々、、、。子ども自らが傷だらけになりながら、大人達が築いてきた教育環境への警鐘を鳴らしているように思えてなりません。

子どもの心理状態と環境は刻々と変化し次々と新しい認識も出てきますが、根本の問題は子ども達に「自分は確かに生きている。」との実感がないことと、「自 分が生まれてきたことはかけがえのない尊いことなのだ。」という喜びが湧かないことだと思います。「平和教育」で子ども達が得るものは正しい歴史認識だけ でなく、実は「生きる力」を貰うことに他ならないと思うのです。

◆私立高校では早い時期から海外修学旅行を実施してきましたが、都立高校でも検討されてはいるようです。

【東京都教育長】海外修学旅行は、日本と異なった文化や生活などに触れるよい機会であり、日本人としてのアイデンティティをはぐくむ上で大切な教育活動で ある。平成14年度から国際高校、飛鳥高校、蔵前工業高校を海外修学旅行の試行校として指定し、安全の確保や交流の方法、保護者の経済的負担などについて 検討してきた。今後、都立高校においては、試行校における成果や課題などを踏まえそれぞれの学校の実態を最も的確に把握している校長の判断の下で、実施で きるようにしていく。
(平成16年第3回東京都議会定例会より 平成16年11月5日発行 教育庁報No.497)

この件についてかなり前から議論されていることが窺え、縮小傾向の最近の国内修学旅行との間には多くの課題もはらんでいることと思いますが、子ども 達を国際人として育てるにあたっては、やはり人間として「生きる」意味に向き合わせてあげることが第一だと考えます。海の向こうではなくこちら側にある 「平和を訴える世界遺産」にまず学び、生きていることへの感謝と地球の危うい存在を知ってこそ、日本と異なった国の人々を愛しく想い互いを尊重するように なれるのではないでしょうか。

60周年の広島に思う ―母の足跡(3)

近藤 泉

◆川べりで猛火を逃れたかに思えた母は、このあと地獄絵図を見ます。

対岸の天にも達するかのような火柱、目を覆う被爆の傷、自分の命を守ることだけに必死な兵隊、黒い雨、溺れ行く人々、そして母自身も水の底に沈み、青年に助けられます。

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稲荷大橋から相生橋方向を望む

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母は青年とともに稲荷大橋を西に渡り、1.5キロ程直進し相生橋と思しき橋まで辿りつきます。相生橋は原爆投下目標とされ、原爆ドームのすぐ前、爆心地付近です。母はまさに爆心地に向かって歩き続けていたのです。

母は青年から橋のたもとで待つように言われ別れますが、待ち切れず一人四日市の救護所に向かうトラックに乗り込みます。救護所となった小学校で二夜を過ごした母は、瀕死の状態で列車に乗り佐世保の疎開先へ帰り着きます。

今回、私が母の足跡を辿り実際に歩くことができたのは稲荷大橋までです。

母の書き残した体験記には、地図の上で少し不一致がありそうな気がします。しかし、母は見知らぬ土地で体を貫き通す原爆を被曝し激しい精神的ショックの中、命がけで壊滅した街を逃げ惑ったのに、よくここまで書きぬくことができたと改めて感じ入りました。

◆8月6日の暑い陽に照らされた京橋川の水面を見つめていると、戦争の悲惨さを訴え続けた母の深い深い悲しみが未だに広島の水底に沈んでいるような心持ちにとらわれました。そして、誰よりも平和を愛した母の暖かい胸のぬくもりが蘇って来ました。

60周年の広島に思う ―母の足跡(2)

近藤 泉

◆かろうじて歩ける状態の駅前大橋を渡った母は、目の前に広がる街の惨状に足がすくみます。倒れた家の下敷きになった人々を助けることができず走り続けます。今も小さな旅館が数件並ぶ京橋町のこの辺りも母が通ったような気がしました。

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僅かな火の手を見つけ、全市に燃え広がると直感した母は、川へ向かいます。

(母の体験記より) 潰された家の端から僅(わず)かに炎が紅い舌を出しているのを見た。頭を突きぬけるような恐怖が身体中を走った。夢中になって彼を呼んだ私は、炎を指さして、 「川に逃げましょう。」 恐怖で声が上づっていた。 (中略) 「火事だ、川に逃げよう。」 大きく頷(うなづ)いた彼は、右に道を折れ、川に行く道を急いだ。

駅前大橋から市内を南下していた母は、右に道を折れいったん川べりに逃げたあと相生橋に向かって再び歩き続けます。相生橋は稲荷大橋を右に渡ってまっすぐ先なので、母が逃げた川べりというのは上柳橋か京橋から稲荷大橋までの京橋川沿いのどこかだと考えられます。今市内の川はみな高い石垣の堀になっていますが、母の記述によると当時は草の生い茂る土手だったようです。

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京橋

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京橋から稲荷大橋を望む

かなり川幅のある対岸に天にも届きそうな火柱が現れ、こちらへ倒れてきて人々の阿鼻叫喚が始まった、と母は書いています。現在この川沿いの道は「平和の道」と名付けられ、木陰の涼やかな静かな散策路になり、川の流れはどこまでも穏やかでしたが、必死に生きようとした母の存在が感じられて仕方 がありませんでした。

60周年の広島に思う ―母の足跡(1)

近藤 泉

2000年に母が亡くなり、国から交付されていた「特別被爆者手帳」を地元保健所にお返しする時、私は手帳のすべてのページをコピーしました。母が広島で「確かに」被爆し「被爆者」として生きぬいてきた事実を残しておきたかったからです。

そして今回の広島の旅で、60年前の8月6日に母が魔の閃光を浴びた地点をはっきりさせ、どの道を逃げ惑ったかを想定し辿ることで、母の記憶の中にしか存在しないたった一人の個人的な体験を現実に起きた事実として記録し残したいと思いました。

母は当時の記憶から、爆心から1.8キロの「松原町」で被爆したことになっており、被爆者手帳にもそのように記録されていました。

(母の体験記より)
駅の右側にずらりと並ぶ旅館を見つけ、(やれやれ)と、その中の一軒に入って行った。
(中略)
其処を出た私は何とかして休みたいと思い、もう一軒の旅館に入ろうとして厭になった。
(駅に戻れば、何とかなるかもしれない)
軒先を離れた私は、夏の日差しを右半身に受けて、道路に立った時、マグネシウムに似た閃光が、パッと私を包んだ。
火の海に、投げ込まれ骨まで焼けてしまうかと思う程の熱さだった。
「お母さん、熱い!」
悲鳴をあげた私は、瞬間、ぢりつ。と焼かれて、
きりきり舞をして体を大きく反らすように道路に叩きつけられた。

JR広島駅を含む駅前大橋までの駅前通り東側の一区画が松原町です。現在の駅前はバスと路面電車の停留所の大きなロータリーになっています。当時の 広島の地図はまだ調べていませんが、被爆後少し歩いてから駅前大橋らしき橋を渡っていることから、母が駅前右側に訪ねた旅館街は、今はこのロータリー東側 の広島東郵便局やダイエーなどの大きなビルになっていると思われます。広島は有名な商業の街で駅前には商人を泊める旅館が軒を連ねていたと、生前母はよく 話していました。

母は一軒だけ旅館を訪れ駅へ引き返そうとしているので、駅に近い広島東郵便局付近で被爆したと考えられます。

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今回8月6日の昼過ぎ、母が被爆したであろう広島東郵便局(南区松原町2-62)前に立ちました。次女と二人、熱い日差しに目が眩みました。8月6日は、この60年間一度も雨が降らないと聞きます。

松原町の住居表示を写そうと探しあぐねていた時、カメラを下げた私の姿を穏やかな笑顔で見つ めている老夫婦に気づきました。母が被爆した松原町を訪ねて来たことをお話しすると、福屋デパートの裏に慰霊碑があることを教えて下さいました。

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母は命の恩人となる青年と出会い、駅前の橋に向かって逃げます。 その橋-駅前大橋のたもとには今、福屋デパートの立派なビルが立ち、ビルの裏手は各方面からの広島駅行きバス終点降車所で、ビルと川との間は芝生に数本の桜が植えられた小さな公園になっています。慰霊碑がひとつ立っていました。

60年目の広島に思う

近藤 泉

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◆再び広島の地に戻って来ることができた――8月5日、5年ぶりに新幹線から広島駅に降り立った私は、深い感慨で胸がいっぱいになりました。60年前の母は、たった一人、同じ駅に立ちどんな思いでいたのでしょう。

原爆記念資料館は様々な人々で溢れていました。なかでも小中学生や高校生の団体、小さい子ども連れの家族が多く、若い世代の心に平和の灯 が受け継がれていることをひしひしと感じました。「平和学習ノート」と書かれたバインダーを首から提げ、この世にあってはならない恐ろしい展示物を真剣に 見つめているこの子達を見ていると、熱いものが込み上げて来て仕方がありませんでした。

◆8月6日、私と中3の次女は、小金井市「平和行事に参加する旅」16名の一員として、慰霊碑に向かって左側自治体席の前の方に座ることが出来ました。 60周年目の祈念式典は8時から1時間以上、登壇者は次の11名にもなりました。

広島市議会議長/秋葉広島市長/こども代表(男女一緒に)/内閣総理大臣/衆議院議長/参議院議長/最高裁判所長官/国際連合事務総長(代読)/広島県知事/広島県議会議長
平和祈念式典式次第

例年言われ続け、特に今年の登壇者が揃って唱えている「被爆者・ご遺族の高齢化」。お年を召した方々のことを考えない60周年の懇ろな式次第に、倒れる方の出ないよう祈るばかりでした。そして、父と同じ80歳の隣席のおじいさんに扇子で風を送り続けました。

◆秋葉市長の平和宣言には毎年感動し、私の生きる姿勢を奮い立たせてくれますが、今年も一言一言が胸に響きました。

秋葉市長は平和宣言で、決裂した5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に言及し、「核保有国と核保有願望国が世界の大多数の声を無視し、人類を滅亡に導く危機に陥れている」と批判。広 島で総会を開いている「平和市長会議」が採択した活動方針を踏まえ、2020年までに核兵器廃絶を実現するため、「国連総会が具体的ステップを10年まで に策定するよう期待する」と強調。来年8月9日までを「継承と目覚め、決意の年」と位置付け、「世界の多くの都市でキャンペーンを展開する」と表明した。
[時事通信:2005年08月06日] 全文を読むには

河野洋平さんは、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の慰霊碑の言葉について言及し、これにも大変心を打たれました。

「20世紀アジアの民が独立に立ち上がった時、西側列強によるアジア支配が始まった。同じアジアの国家として、諸国の民と手を携えてアジアを護る大切な道 があったにも拘らず、日本は逆にアジアの多くの国々を侵略し、アジアの民に悲惨な思いをさせ、取り返しのつかない歴史を残してしまった。過ちとはこの意味 でもある。」  (私の聞いた趣意)

はっきりと日本の来し方について述べ、今後進むべき道を訴えました。政府側挨拶はこの一つで充分だと思いました。

慰霊碑の言葉の意味をずっと考え、昨年盧溝橋抗日博物館を訪れた次女も「これでやっと胸がすっきりした。」、そして総理の挨拶について「小泉さんがしゃ べっているはずなのに、魂が抜けていて、そこに小泉さんの存在が全く感じられなかった」と言っていました。本当に情けない総理挨拶で、団のみなさんも憤慨 していました。

◆この1年間で亡くなられた被爆者は5,375人、慰霊碑に納められた名簿には24万2436人+〔私の母〕の名が刻まれています。今回、母が被爆した地点と逃げ惑った道を辿ることができました。近々写真とともにご紹介したいと思います。

広島平和の旅

近藤 泉

◆8月5~6日、私と大学生の息子・中学3年の娘は、小金井市主催の「広島平和の旅」に参加することになりました。

わが市は1982年に「非核平和都市宣言」をしています。映画会や原爆写真パネル展などいくつかの非核平和事業の一環として、毎年15名の市民を広島の平和祈念式典に派遣し、新幹線代と宿泊費の半額を市が補助しています。

「核兵器廃絶と恒久平和を願うこと」を目的にしたこのような立派な事業があることを誇りにし、市民の大切な税金を使わせていただくことに感謝しながら、平和を祈る旅に行って来たいと思っています。

◆2000年に始めて広島を訪れた時は、その春に亡くなった愛しい母の名が慰霊碑に納められるのを見届けてきました。今回は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に母の被爆体験記を寄贈し登録されたものを自分の目で見て来ようと思っています。この体験記はこのウェブページ「論文・エッセイ」コーナーに載せて頂いています。

この平和祈念館は記念資料館近くに2年前に開館し、被爆者の証言ビデオ、広島市内の被爆前や直後の写真 、被爆直後の広島市内を撮影した動画が収蔵・展示されています。特に被爆者の体験記は10万編を超えています。母が壮絶な決意で原稿用紙に向かっていたの を知る私は、その数の多さに本当に驚きました。10万もの方々は一体どんな叫びを紙に残し、どんな思いを伝えたかったのでしょうか。

被爆者が体験した惨禍と平和希求の思いなどを国内外の人々、子どもたち、孫たちの世代へ伝えていくため継続して体験記を集めています。体験記は、広島・長崎の平和祈念館で公開しコンピュータで検索できるようになっているそうです。広島や長崎の平和祈念館にお出でになる方は、どうぞ母の名で検索をして みてください。(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館公式ウェブページ参照)

◆母は、本人の記憶により爆心から1.8kmの松原町で閃光を浴びたとされています。地図で見るとそこはJR広島駅前になります。駅前というと、焼け焦げた 市電が骨組みだけになった光景が思い浮かびます。朝の通勤時間に満員であったはずの人々の姿は跡形もなかったと聞きます。半分日陰に立っていたとは言え、 母が生きていたことは奇跡としか言いようがありません。

広島の夏は焼けつくような暑さです。母が被爆したその熱い地点に子どもと共に立ち、その奇跡の意味を考えたいと思います。

茶の間で平和を考える

近藤 泉

ロンドンの同時多発テロで亡くなられた方々とそのご家族に、心からお悔やみを申し上げます。 傷を負ったみなさまに、心と体の傷の痛みが一日も早く癒えることをお祈り申し上げます。

◆ 茶の間のテレビは、増え続ける犠牲者の数を叫んでいました。 我が家の男の子は、最新のロールプレイングゲームの攻略法について友達と話していました。

「死者は30人になりそうです。」
「あいつとこいつをやっつけたよ。超ムズイー。」
「誰が持ち込んだ爆弾なのでしょうか。」
「倒し方、教えてあげるね。」

やめなさい!!

我が家では、子ども達と話し合って一つだけ約束をしました。 「テロで人が亡くなっているのだから、当分の間バトル物のゲームは禁止。」

殺しではなく、登場人物(怪物?)をふわふわ~と消してしまう物も入れると、バトル物ではないゲームはほとんどない、と子どもが教えてくれ ました。子どもが小さいうちは、親もパズル物のテレビゲームの相手をしてやったり、傍にいて「『死ね』という言葉を使ったら1ヶ月ゲーム禁止だからね。」 なんて悲しい見張り番をしていました。小学校のクラスで、我が家は最後から2番目の遅さでテレビゲームを買いました。買ったばかりなのに小さい息子はゲー ムの達人でした。何のことはない、家にゲーム機がなくても友達の所で修行済みでした。母ちゃんの大反対の中、父ちゃんが子どもにプレゼントしてしまいまし た。

◆ 最近神奈川県は、過激な内容のゲームソフトを「有害図書」として青少年に販売できないよう条例を整備しました。人を殺し続けるリアルな画面、非現実の世界 に誘う巧みなシナリオ。買う方も悪いが、作る方が悪の元凶。身分証明なしでは売らせない法規制、素晴らしい前進ですが、一つの自治体に任せていいはずがあ りません。多摩川を越えれば自由に手に入る訳ですから。

そして、一つの県の子どもだけが守られるのではなく、全国の子ども達を守るべきだからです。

私はこの条例の話を聞いてすぐ地元市議に相談しました。いろいろ調べてくれて、都のレベルで取り締まるべきものである、ということが分かりました。

やっぱり!

都議会と連携して今後是非取り組んで行きたいと言うことでした。

本当は過激ゲームソフト製造そのものを規制してもらいたいものです。選んで買わせた筈なのに買ってからあまりにひどい内容のゲームに、封印をした物もあります。命を慈しむ人間を育てたいのに、人殺しを弄ぶ遊びを教えた商業主義を心底憎みます。

歴史クイズ その1

近藤 泉

◆私は歴史が苦手なので、中学生の娘の教科書でちょっと勉強してみるかと気軽にぱらぱらめくってみたら、びっくり。楽しくて釘付けになりました。

今の教科書はカラー写真の豊富なこと。細かい字を読むのが滅法苦手になった母には、とても嬉しい。歴史の案内役は可愛いアニメアイドル風、楽しい雰囲気でお堅い歴史の世界に誘われます。ところが、読み始めるとかなり高度な内容で、高校の教科書かと思うほどです。

「世界大恐慌」から「太平洋戦争の終結」まで19ページもあるのには、正直びっくりしました。日本のかつての教科書を閲覧できる所があるそうなので、自分の頃の薄っぺらだった教科書と見比べてみたいと思いました。

さらに私が感心したのは、子ども達が勉強に飽きないように工夫されているのか、はたまた子ども自身が歴史を観る眼を養えるよう尽力されているのか、学習のポイントをがっちり押さえた「質問コーナー」がところどころにあるのです。そして、それが結構むつかしい。

この質問にきちんと答えられるように、思春期の中学生を指導するのは大変だろうけれど、改めて教師の仕事は素晴らしいことだと思いました。

◆その1 <不景気と戦争の不安>

  1. 歴史上最大の不景気は,どのようにしておこったのだろうか。
  2. ファシズムが台頭した理由をかんがえてみよう。
  3. 世界大恐慌は,日本にどのような影響をあたえたのだろうか。
  4. 各国の景気対策には,どのようなちがいがあったのだろうか。

(日本書籍「わたしたちの中学社会 歴史的分野」より)

◆ちなみに教科書の扉にはこんな素敵な言葉が載っています。

「歴史を勉強すると何の役に立つのですか。」

「歴史を学ぶことで,わたしたちはどう生きたらよいかとか, どんな世の中にしたいかを考える力がつきます。 さあ,これから歴史の舞台をたずねてみましょう。」