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「靖国参拝問題」について

今井 康英 (2005年6月15日 17時28分)

私のブログでは、最近「靖国参拝問題」に関連するニュース等が 多く取り上げられている。 そこで今回は、この問題に対する私見の一端を述べます。

私は靖国神社に参拝したことはありません。 国の決めた基準で、戦死者を「英霊」に祭ることに違和感があるので、 行く気もないし、参拝する気にもなれません。 なぜ戦死した者だけが「英霊」なのか? 生きて帰ってきた者も、祖国再建のためにどれだけ苦労したことか。 先の大戦では戦場の軍人軍属だけでなく、空襲などで死んだ者も夥しい。 靖国神社に祭られた者だけが、犠牲者ではない。 それに、戦場とされたアジア諸国の人々にとっては、加害者でしかない。

日本では、死んだ者が「仏」になったり、「神」になったりするが、 これは日本独自の習俗と言えるかもしれない。 しかし、仏や神にとっては、実に迷惑な信仰である。 故に、ハッキリ言えば、これは迷信である。 この迷信は、なるべく早く払拭すべきであると思う。

但し、戦没者あるいは死者に対する敬意に欠けているのではないか と誤解されても困るので、申し添えておきます。 私も自宅近くにある戦没者慰霊碑、忠魂碑には行くこともある。 その時には、私なりの方法で追善供養・報恩感謝の祈りを捧げてきた。 その度に誓うことは、 この国に再び戦争の惨禍を起こさせません、必ず世界平和を実現します ということである。これは近年特に強く感じることである。

私には、米軍を中心とする対アフガニスタン戦争や対イラク戦争への 日本の対応(国策と言うべきか)は、明らかに誤りであるとしか見えない。 自衛隊、つまり日本の軍隊が現に戦地に送られている。 その名目は後方支援や人道復興支援ではあるが、 米軍を主力とする多国籍軍の一員としての参戦である。 日本は今、これらの戦争に軍事的にも加担しているのであって、 平和憲法の下でこんなことが実施されるとは、考えられないことである。 私は昨年、地元で自衛隊イラク派兵違憲訴訟に参加した。 被告は国である。一刻も早く、撤退させるべきだという訴えである。 日本が不戦を貫き、世界平和に貢献することは当然であって、 私にとっても、一人の日本人としての責任であり、 日本に生まれた地球人としての責任でもあると思っている。

そんな時(すなわち「戦時下」)に、 現職の総理が毎年靖国参拝に行くということが、 どんな意味を持つか。 前回も述べたことだが、自粛が当り前であると私は思う。 小泉総理の真意は知りようもないが、実に訝しいと言わざるを得ない。 この総理を国民の半数近くが支持しているというのも、 「大本営発表」の類い(=デタラメ)ではないかと思えて仕方ない。

「戦後60年」の諸問題の解決に向けて

今井 康英 (2005年6月8日 20時12分)

日本では、今年は昭和20年(1945)の「終戦」から60年目である。 8月15日は、今も「終戦記念日」と称されている。 今でも、あの日をこう言い続けている国は日本だけではないか? なぜ無条件降伏による「敗戦の日」、「戦争に負けた日」を誤魔化すのか。 ここに戦後60年を経ても、なお「戦争責任」その他の諸問題を 解決できないでいる根本原因の一つがあると私は思う。 日本に限らないだろうが、国は国民に平気でウソをつくものである。 国民は国の言い分を正面(まとも)に受け取ってはならない。 小泉総理の靖国神社参拝などは、自粛が当り前である。 どうしても参拝したいなら、総理の職を辞してから行くべきである。

実は昨年になって、やっと父の軍歴など正確に分かったことがある。 平成16年6月21日付、栃木県保健福祉部高齢対策課長の証明による 「履歴書」(第十七号書式、A4版1枚)によると、 ([ ]内は、「身上申告書」等の記載による。 【 】内は、極秘 ソ連邦内務省捕虜並びに抑留者業務総局「登録文書」 の記載による。原本はロシア語、日本語訳による。コピーはA4版で5枚、 2004年7月20日付で「厚生労働省社会・援護局業務課長」が 「この写は当課保管資料の原本と相違ない」と証明している。)

父は、大正12年(1923)12月18日生まれの長男であったが、 召集により、 昭和19年(1944)11月20日、宇都宮東部36部隊に入隊。

昭和20年(1945)6月、銭花店より満洲に入り、 第63師団所属の独立歩兵第78大隊第2中隊に配属になった。 [秘匿名、通称、陣第2993部隊、小田大隊関口中隊、 部隊長は小田二郎少佐] 同年8月、奉天にて武装解除。
【同年8月14日、奉天にて「自発的に投降」、捕虜となる】
同年12月、ソ連「ムリガリウムサイ」収容所入所。
【同年11月12日、第348収容所に到着】

昭和22年(1947)8月、ソ連「レンゲル」収容所に移動。
【同年7月1日、調査票記入、本人自筆サインあり。漢字】

昭和23年(1948)7月、ソ連「053」収容所に移動。[ナホトカ地区内か]

昭和24年(1949)9月19日、ナホトカへ移動。
【同年9月22日、第380収容所への引渡し】
【同日、登録文書に「本文書は帰還にともない終了」と記載】
同年9月27日、ナホトカ出港。
[同年9月30日、舞鶴上陸。船名は永徳丸]
同年10月5日、復員。

昭和41年(1966)8月28日、死亡。

平成16年(2004)7月7日、私は遺族として総務省所管の独立行政法人 「平和祈念事業特別基金」に対して「恩給欠格者書状等贈呈事業」 による「請求書」(恩給欠格者死亡者用)を提出し、受け付けられた。 同年8月25日、九段社会教育会館でのビクトル・カルポフ氏講演会に参加。 上記の収容所名や収容所番号について質問、不満足ながら回答を得た。 同年10月25日、内閣総理大臣名の書状が「ペリカン便」で届けられた。 その書状には、こう記されていた。

故今井康祐殿
あなたの先の大戦に
おける旧軍人軍属と
しての御労苦に対し
衷心より慰労します
平成十六年十月一日
内閣総理大臣 小泉純一郎(書状は国立印刷局製造のものである。)

召集令状も紙切れ1枚だったが、 その御労苦に対する衷心の慰労も紙切れ1枚である。 ソ連抑留時の未払い賃金問題も、未だに解決していない。 当時の生存者は既に80歳を越えているというのに。 父の戦友である全国抑留者補償協議会の寺内良雄会長は、 「国は我々が皆、死ぬのを待っている」と憤慨している。

ある日、父の遺品のなかに1枚の写真を発見した。 「19.11.20」と日付の書き込みがあるその写真には、 出征兵士の父を中心に、左に父の母(私の祖母)、 その周りに今では名前もわからない人達が9人ほど。 「祝 入営」と書かれた幟も見える。

父の自筆で解説が2枚、付されていた。 1枚には、

大平洋戦争酣の秋
醜の御楯と出征く我は・・・・その門出の日
昭和19年11月20日、東部36部隊に入隊せんとす
宮市東塙田町162の自宅前にて 康祐21才

もう1枚には、

この写真は
康祐と共に
北支-満洲-
シベリア鉄道で
遠く中央アジヤ
まで行って帰りし也

私もこの写真と共に、 父の足跡を辿ってみたいと念願している。 父がご迷惑をかけたかもしれない人々にお詫びをしつつ、 またお世話になったかもしれない人々にお礼を言いつつ、 この国に二度とあのような戦争を起こさせまいと誓いながら。 同時に、平和憲法の理念を共有して頂くために努力したい。 私も毎日、世界平和と人類の幸福を祈り続けている。

2005年6月8日

追記

本稿について、若干の補足を記しておきます。

(1)寺内良雄会長は、宇都宮市在住です。 2004年7月29日、御自宅を訪問し、面談して頂きました。 父は第2中隊所属でしたが、氏は戦友とはいえ第3中隊所属でした。 「写真」を見ていただきましたが、所属中隊が異なると面識がない こともあり、見覚えがない(思い出せない)とのことでした。 コラムに書いた言葉は、その時私が直に伺った氏の言葉です。 氏が栃木県立図書館に部隊史『陣』を寄贈したことを教えられ、 この書によって父の足跡もほぼ確認できました。 また同年9月18日に開催された国本平和学習会の 創立記念第1回学習会に講師として出席して頂きました。 ここに銘記して、深く感謝の意を表します。

(2)カルポフ講演会の際、通訳を務められた浜野道博氏にも お世話になりました。収容所の所在確認のため、 江口十四一氏に照会して頂き、その御縁で直接、江口氏からも 貴重な資料を提供して頂くことが出来ました。 ここに銘記して、両氏の御厚情に感謝申し上げます。

2005年6月9日

自己紹介

今井 康英 (2005年6月1日 21時14分)

毎週水曜日のコラムを担当することになりました。宜しくお願いします。 最初なので、自己紹介を書きます。

私は1957年(昭和32年)5月、この地球に生まれました。 両親は偶々日本人でしたので、私は日本人として育ちました。 (今でも自分は地球人であり、日本人なのだと感じています。) 父は小学校の用務員で、母も同じ小学校で給食調理員をしていました。 父が亡くなるまで、小学校の用務員宿舎に両親、祖母、妹と住んでいました。 中学で初めて英語を学び、大学では中国語(第二外国語)を学びました。 しかし大学卒業後は英語や中国語を使う機会がなくなり、遺憾ながら今では日本語 オンリーです。 日本に住んでいるうちは、不自由はありません。 但し、近隣友好を願うなら、中国語のほか、朝鮮語、ロシア語等も必修であったと 反省しています。 また世界平和を願うなら、英語、フランス語、スペイン語、アラビア語等も習熟する 必要があると感じています。 (私はものぐさ者なので、これらの言語を相互に自動翻訳してくれる機械があれば いいのに・・・。多分、近い将来には実用化されると思います。)

私は5歳の時に、栃木県宇都宮市の日蓮正宗誠諦寺で御授戒を受けました。 本人は当時のことは何も覚えてないのですが、これは記録によります。 (大事なのは、創価学会に入会したことで、こちらに本義があります。) 高校生の時、初めて池田大作著『人間革命』(第一巻は聖教新聞社、1965年、 定価380円)を読み、自分が池田先生の弟子であることを知りました。 (今でもその自覚は変わりませんが、何分出来が悪いもので・・・) 大学時代は中西先生に大変お世話になりました。 (未だ恩返しも出来ず、申し訳ない限りです。) 一つだけ、当時の忘れ難いエピソードを書いておきます。 日時は正確に思い出せないのですが、ラーニング棟の地下通路でゼミの論文集 『輩流』を直接、創立者に手渡すことが出来ました。 その時、創立者には謹んで両手でお受け頂きました。 また最近、と言っても昨年8月24日ですが、「日本国憲法第9条を支持する宣言」を 創立者にお渡しするため、信濃町の学会本部を訪れ、私信を付して受付の方に託し てきました。

2004年7月20日に初めてOCNの「ブログ人」にブログを開設しました。 簡単に開設できて、簡単に投稿できるので助かります。 PCだけでなく携帯電話からも投稿出来るらしいのですが、私の携帯は今のところ 通話のみなので、それは出来ませんが、いずれにしても便利な情報発信ツール だと思います。正直なところ、携帯メールは入力が面倒なので当分利用する気に なれません。 (そのうち音声受信を自動的に文字化するシステムが採用されて、会話式メールも 出来るようになるかもしれません。そういえば、PCでは音声入力はもう実用化され ているので、携帯でも既に出来るようになっているのかな?)

ブログ開設当初は「自衛隊違憲論」としていましたが、その後同年9月4日に地元の 有志5人で国本平和学習会を創立し、私が事務局長を努めることに なりましたので、「恒久平和のために」と改題しました。更に近々開通予定の光回線 利用に備えて、2005年4月21日以降は「gooブログ」にバックナンバーを移設し、 現在も同名で投稿しています。 因みにアドレスは、http://blog.goo.ne.jp/05a21/。 今のところは、ほとんど平和問題に関連する新聞記事などをネット上から集めて、 時々、それに若干のコメントを添えるという極めて安直なものですが、ご高覧頂き、 ご叱正頂ければ幸いに存じます。 次回からは、このブログで取り上げた問題のうち特に重要だと思われるものについて 所見を述べていきたいと思います。

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