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ベトナム戦争を遠く離れて

わたなべ ひろし (2008年6月18日 19時04分)

先月行なわれた当研究所の総会記念講演で、東大の古田元夫教授のお話しを聞かせていただいた。古田さんの専門はベトナムとのこと。

古田さんのお話しによれば、2000年以降のベトナムの経済成長は著しいものがあるようで、平均成長率は8%に達するという。そしてベトナムの経済成長の特徴として、古田さんは外資の流入とIT化を上げていた。これが両輪となって、ベトナムを「貧困な発展途上国」から「現代的な工業国」へと押し上げているということであった。

僕などが特に面白かったのは、現在のベトナムは社会主義か否かという点についての古田さんのお話しであった。ベトナム自身は、自分たちの経済を「社会主義指向の市場経済」と規定しているそうだが、いかにも苦しい感じ。一方、古田さんもベトナムを社会主義国として定義づけておられるのだが、その理由はといえば、資本主義以外の選択肢が存在しない現在の世界において、「あえて」(このカギ括弧は古田さんのレジメより)社会主義の国号を名乗っているのであるから、それは社会主義とみなしてよいのではないかというものであった(と思う)。

古田さんのような良い方(スミマセン、そうお見受け致しましたもので)に、ベトナムはがんばって社会主義を名乗っているのだからそれを認めてあげようと言われても、当のベトナムの「社会主義者」の方々は、非常に複雑な思いを抱くのではないだろうか。

1960年代、ベトナム戦争と向き合うことで(古田さんなどもそのお一人であったのだろう)、日本の反戦平和の思想がどれほど「豊か」なものになったことか、僕はベトナムと聞くとまずこのことを考える。そのことで、いわゆる「アジア」というものが僕たち日本人の視野に入ってくるようになり、それまでの被害者意識に立った「戦争体験」に依拠していた日本人の反戦平和意識というものが、自分たちのかつてのアジア侵略に対する加害者責任を伴ったものへと転換していく重要な契機となったと思うからである。

そして、例えば米国の日本研究者であるトーマス・ヘイブンズの『海の向こうの火事―ベトナム戦争と日本1965-1975』などを読むと、当時の「ベ平連」などに代表される日本の反戦運動が、米国で展開されていたベトナム反戦運動からどれほど多くのことを学んでいたかということがよく分かる。戦後の日本の「平和」は、日本一国のみで成立したわけでは決してないのである。

2008年の現在から、ベトナム戦争に関連してある種の感慨を持って思い出すのは、1971年のニクソン米大統領による、いわゆる「ドル・ショック」である。

米国はベトナム戦争の戦費を賄うためドルを垂れ流し、その結果国際基軸通貨としての信用を失い、金との交換停止を宣言することで、為替が固定相場制から変動相場制へと移行する。そしてこの変動相場制による為替市場の出現と、その後のITの発達を背景として、90年代以降の金融市場至上主義のグローバリゼーションが出来することになった。

古田さんが言うように、現在のベトナムの経済成長を支えているのが外資の流入とIT化であるとすると、そもそもそれをもたらしたグローバリゼーションそのものを生み出す遠因を作り出したのがベトナム自身なのであるから、現在の彼等の経済成長もむべなるかなということなのかもしれない。

ひとつのアメリカ論

わたなべ ひろし (2006年9月15日 12時50分)

僕がよく覗いているブログの中に、次のような「アメリカ論」があった。

「中国もそうだけど、アメリカという国は本当に優秀。自分たちの利益になるために、どこにどう作用すれば、どういう力が働いて自分たちのために動くのかをよく研究して理解していると思います。」
http://yaplog.jp/dione/category_1/

これは僕がいつもアメリカという国に対して感じていることでもある。そしてアメリカのこのような「優秀性」は、イケイケドンドンの絶好調なときよりも、変動期や転換期など、大変なときにとりわけ発揮されるのではないだろうか。例えば「ピンチはチャンス」とか、「ころんでもタダでは起きない」とか、アメリカのためにあるような言葉だとしみじみ思う。これらの言葉は、本来ひとつの「人生観」みたいなものなのであろうが、それがアメリカ人の手にかかると、そういうことを実現するための具体的な「手法」みたいなものを、実際に彼等は「開発」しているような、そんな気にさえさせられる。

金融工学の今野浩さんの本にこんなことが書いてあった。

「1980年代半ばはバブルの初期に当り、巨額の利益を手にした日本の金融機関が雪崩を打って海外に進出した際、彼らがウォール街で目にしたのは、不況の宇宙産業から転出したロケット・サイエンティストと高エネルギー加速器プロジェクトの打ち切りで職を失った物理学者たちの群れであったという。折から金融派生商品が投資家の人気を集める中、新商品開発や試算運用の場面で、数理工学と計算機に強い「クオンツ」たちが華々しい活動を行なっていた。」(『金融工学の挑戦』p4-5、なお引用は要約)

今野さんのこの記述を読んで、ここにアメリカの「優秀性」というものを考えるヒントがあるような気がした。それを言葉にすると「特定の問題領域や課題を(競技場みたいに)フィールドとして設定し、そうすることでそこに人材や資本が殺到するようになり、よってたかって打開策を案出する」というような感じだろうか。

具体的に言えば、例えばここでは「金融」というものを、いわゆる「経済学」と切り離し、純粋に「工学」的フィールドに設定することで、特に経済学的な専門知識があまり無くとも、「数理工学と計算機に強」ければ誰でもマーケットに参入できるようなものにしたということなのである。こうすることで、特定の問題や課題を解決するために調達できる人材や資本の幅が格段に広がり、しかもその調達先が「不況の宇宙産業から転出したロケット・サイエンティストと高エネルギー加速器プロジェクトの打ち切りで職を失った物理学者たち」というのだから、斜陽分野から新興分野への人的資本や高度技術の再利用にもなっている。

そして今では、経済の分野の中で金融工学がメインストリームとなり、アメリカ主導のグローバリゼーションを引っ張っている。

こういうやり方、つまり「衆の力を頼めるような形にフィールドを設定し、よってたかって問題を解決する」というやり方は、競争相手や困難な局面が明確なとき、一層その威力を発揮する。なぜならそういうときはフィールドを設定しやすいし、課題(敵?)が明確な分、自分の現在手持ちの技術やキャリアがどの程度そこで有効か目算がつきやすいため、人材の流入もそれだけ容易になるからである。

ところがアメリカのこういうやり方は、有効性が大きい分、それだけ大きな欠点もそこに内在させているのではないだろうか。それは、一度走り出したら躊躇が無くなるというか、抑えが効かなくなるということである。僕がアメリカの「優秀性」に感心しながらも、彼等に対していつも抱いている危惧がこれである。

19世紀のフランス人、アレクシス・ド・トックビルは、自著である『アメリカのデモクラシー』の中で、「平等な多数者」というものに依拠するアメリカのデモクラシーに、特権階級に依拠する母国フランスの「アリストクラシー」とは異なる強さを感じ、そこに歴史的な次代性を見て評価をしている。

しかしその一方でアメリカのデモクラシーが、多数者を拡大し、多数者に依拠するあまり、多数者しかいなくなってしまうという状況、少数者や反対者がいなくなってしまうという状況を常に出来させる可能性をそこに含んでいると指摘する。彼はそれを「多数の専制」と呼んだ。

「一つの問題に関して多数(派)がいったん形成されると、その行く手に障碍というべきものは何もない。行く手をさえぎるといわないまでも、その速度を鈍らせ、それが行きずりに押しつぶしていくものの苦情に耳をかす余裕をもたせるものはないのである。このような事態から生まれる諸結果は、将来にとって不吉で危険である。」

この記述など、「9.11」以降のアメリカそのものではないだろうか。

しかし同時にトックビルは、アメリカ社会が備えている「多数の専制」を抑制する仕組みについてもつぶさに観察している。それは具体的には、タウンなどの地域自治体であり、司法制度であり、習俗とりわけ宗教などである。これらの専制抑制装置は、今のアメリカにおいてどのようなことになっているのであろうか。

「多数の専制」からいかに覚醒し平静に戻っていくことができるのか。今のアメリカに対する僕の関心は、この1点に尽きる。

(なお『アメリカのデモクラシー』は、中公バックス版『世界の名著40』所収の岩永健吉郎訳を参照しました。)

外来と伝統

わたなべ ひろし (2006年8月28日 13時01分)

近代における欧米の所産である「民主主義」というものは、欧米社会自身が近代国家を建設する上で自分たちの理念としたというばかりではなく、外へ向けてのひとつの発信でもあった。そしてその発信に呼応して、非欧米地域を含め、世界中からの返信がなされてきた。例えば中国の革命がそうであろう、ヴェトナム戦争がそうであろう、旧植民地の独立がそうであろう。

その結果、欧米諸国は、自分たちが創り出し、自分たちのものであると考えていた「民主主義」というものが、ある意味非常に発展というか、成長した姿を目の当たりにすることになる。「なるほど。我々の民主主義というものは、このような潜在力、可能性を持っていたものであったのか」という具合に。そしてそのことをもって、欧米諸国自身もまた自分たちの「民主主義」というものを、改めて問い直すことになる。

ただその際、返信をする側も、外来のものである「民主主義」の理解を全くの真空状態から始めるわけではないだろう。「欧米のこの考えは、我々のことばでいうと何に当たるのだろうか?」という具合に、その外来物に対する自身の理解を固めていくはずである(と思う)。そしてそこから自分たちの歴史や伝統に対する再認識も生まれてこよう。ここに良い意味でも悪い意味でも「伝統」と「外来」の結びつく背景がある。

コミュニケーションというものの核心は、「自分が相手に向けたことばが、その相手を通して自分に投げ返されてくるとき、それはより深い新たな真実をはらんで返ってくるという点」(岡本夏木)にある。そして「民主主義」を介した世界的な発信と応答の歴史は、まさにこのコミュニケーションの核心を地でいったものであった。このように人類は相互に影響し合いながら、「民主主義」というものを共通の財産として発展させてきたのである。

そして日本の近・現代史もまた、欧米諸国の発したことばの束(=文明)に対する呼応のひとつであった。日本は近代化=欧米化を国家的指針とし、その観点から欧米のあらゆる文物を精査すべき対象として吟味してきた。後追いするものが先行者に倣おうとする場合、先行者の有する特徴・本質を純粋化、あるいは極端化することで効率的に理解なり、受容しようとするものであり、日本の場合はその典型であった。つまり日本に入って来る欧米の文物は、いかなるものも純粋化、極端化を通って認識されることになる。

小西豊治『憲法「押しつけ」論の幻』を読んで、僕は今述べてきたようなことを考えた。小西さんは、日本政治思想史・日本法制史、特に自由民権期の憲法構想研究の専門家であり、そんな著者が「現行憲法を見れば見るほど、自由民権期憲法構想の精髄が表現されているように思えてならないのだが、誰も言おうとしないのが、不思議でならなかった」として、6~7年かけて著したのが本書であるという。

この本の中に次のような場面が出てくる。

「ノルマン氏が総司令部の人たちから「日本に民主主義的な伝統があったのか。」と聞かれたので、「あつた、植木枝盛という人がいた。ミスター鈴木はそれを研究している。」ということを彼らにすでに教えていたわけです。」(pp. 106~107)

「ノルマン氏」というのは、カナダ人の日本研究者であるハーバート・ノーマン(1909~57年)のことである。彼は当時カナダ外務省から少佐待遇で総司令部に派遣されていて、マッカーサーの信任も厚かったという。また「ミスター鈴木」というのは、大日本帝国憲法の成立史、特に自由民権期の私義憲法案の研究者(つまり小西さんの専門と一緒ということになる)鈴木安蔵(1904~83)のことで、当時彼は民間の「憲法研究会」に参加し、憲法草案の作成に励んでいた。そして鈴木が草案作成に際して依拠していたのが、自由民権運動期の私議憲法、なかでも植木枝盛の「日本国国憲案」であった。植木の「国憲案」は非常にラディカルなもので、その特徴はフランスに学んだ主権在民と人権保障の徹底であり、革命権や国籍離脱の自由まであったという。

ここから分ることは、当時の占領軍は自分たちの民主主義を被占領国である日本に一方的に押しつけるのではなく、日本に民主主義的伝統が存在するのであれば、それに根ざしたものを作ろうとしていたということである。そしてそのような意志があったが故に、ノーマンを介して鈴木安蔵の憲法草案と植木枝盛と彼を生み出した自由民権運動という日本の「民主主義的伝統」に辿り着くことができたのである。

ところで小西さんが本書を書くに当たって、もうひとつ別の裏テーマ(?)があったような気がする。それは「イラク戦争」である。

小西さんによれば、ブッシュ米大統領がイラク戦争に踏み切った理由として「イラクへの武力制裁」と「イラクの民主化」の2つがあり、「イラクの民主化」実現の裏づけとして、「第二次大戦後、ファシズム日本がデモクラシー国に生まれ変わったという成功体験がある」のだという。そして同じ戦後占領でもイラクの民主化は上手くいかず、日本の民主化は成功するに到ったその理由を、日本の民主化の成功には日本の近現代史に通暁したノーマンの存在が大きく、現在のイラン占領軍の中にはノーマンのような存在がいないためであると著者は述べている。

小西さんの言うように、確かにノーマンの不在ということは大きいと思う。しかしそれはイラク占領が上手くいかない原因なのではなく、現在のような占領政策からくる当然の結果なのだ。それは、はなからノーマンの存在など必要としてはいない。

僕は現在のイラクにも鈴木安蔵や植木枝盛はいると思うし、「民主主義的伝統」(それは形は違うかもしれないが)は存在していると思う。問題なのは、「イラクに民主主義的な伝統があったのか。」と真摯に問う人間が、占領軍(つまり僕たち)の側にいないということなのである。そしてそれは、自分たちの「自由主義」や「民主主義」は絶対に正しいものとして、一方的にイラクに「押しつけ」ようとしている、今の占領軍(つまり僕たち)の閉じられた思考に原因している。そこでは自分で発している言葉に対する自省というものが決定的に欠落しているのである。

自分たちが呼号している「自由」や「平和」や「民主主義」ということばそのものを見つめ直してみることが、今必要なときなのである。そうすればイラクの人たちの声も聞こえてくるようになるのだろう。

市場・国家・社会

わたなべ ひろし (2006年7月10日 20時22分)

ここ数年、「仕事」に関する本が増えてきているように思う。しかしそれはいままでよくあった「ビジネス書」の類ではない。大学の先生や公的研究機関の研究員などが、統計データやアンケート調査を駆使し、「社会学的」に分析しているのが最近増えている「仕事本」の特徴である。

考えてみれば、近年話題になっているフリーターやニートの問題、失業率の問題、所得格差拡大の問題、3万人以上にのぼる自殺者数の高止まりの問題、これら全てが「仕事」や「働く」ということと深く関連している。

1980年頃からか、日本社会を語るキーワードとして、「消費」が重視されてきた。しかしそれが10年以上にわたる長期構造不況やグローバリゼーションの受容の結果、再び「仕事」や「働く」ということが、日本社会を語る論点の中心になってきたということなのであろうか。

政府の「再チャレンジ推進会議」が、中間とりまとめを発表した。議長は、あの安倍晋三官房長官である。

この報告書を読むと、「人生の複線化」、つまり「再チャレンジを可能とする柔軟で多様な仕組みの構築」をその目的とするとのことで、具体的には中途採用の拡大、正規・非正規労働者間の均衡処遇、社会人の「学び直し」の推進、農林漁業の就業支援、リストラ退職者や定年後の再就労、病気になった人や障害者の就労支援、自殺予防、事業失敗者・多重債務者・罪を犯した人・育児等で退職した女性の再チャレンジ支援、子供・生活保護世帯・母子家庭へのチャレンジ支援などといった言葉が並んでいる。フー

これだけ揃えればモンクはあるまい!という感じの文書である。なんでも安倍さんを支持する議員たちが「再チャレンジ推進議員連盟」というものを結成しているとのこと。

この「中間とりまとめ」について、僕がよくのぞくブログに次のように書いてあった。

「2002年のホームレス自立支援法、2006年の障害者自立支援法・自立支援医療に続いて、フリーターを組み込む自立支援法が始まろうとしている、と考えられる。生活保護の自立支援プログラム化の流れもあった。『自立支援』は社会保障分野の鍵となる言葉だ。社会全般を覆いつくしつつある。」

「自己責任」の次は「自立支援」かあ。しかもこのふたつは連動しているようで、要は「自己責任」をちゃんと果たせるように、まずは各自に自立していただく必要があり、そのための支援を国がしますよということなのである。

国民全員が市場にとって有用な存在、つまり「賭場」である市場に参加できる「掛け金」を持った存在として自立できるように、フリーターやニートはもちろん、クビや倒産した人から生活保護家庭、障害者にいたるまで、残らずガンバッテ「再チャレンジ」していただこうというのがそのココロか。結局は「市場」ガラミの話。

つまりここでいうところの「人生の複線化」、「再チャレンジの推進」とは、市場のニーズに合わせて、国家が社会に介入し管理するためのルートを作成するということなのである。

仕事や働くという行為は、「生活の糧」や「生き甲斐」を得る手段といった個人レベルのことばかりでなく、「相互関係」や「協働」や「参加」といった、社会を成立させる上で重要な他者との関係性を形成する場、契機でもある。

しかし、例えば政府の「再チャレンジ推進会議」の中間とりまとめなどを読むと、「生活の糧」や「生き甲斐」を得る手段としての「仕事」や「働くこと」の面、個人レベルの面を強調することで、全体として市場的な方向に話しを持っていこうとしているのが分る。例えば「全ての人間は自分の可能性を持っているのであり、それをムダにしてはいけない」とか、「あなたにはあなたにしか出来ない仕事がある」とか、「国民一人ひとりが自立して生きていける強さを身につけていきましょう」とか言って。でもこんなご時世、こういうのって訴求力があるんだよねェ。

しかしこれでは「社会」の領域、役割は小さくなっていくばかりである。

市場や国家ではなく、「社会」を媒介とした、つまり「相互関係」や「協働」や「参加」を媒介とした「自立」ということを、僕たちはもっと考える必要があるのではないだろうか。

戦後社会を支えたもの 承前

わたなべ ひろし (2006年6月18日 20時52分)

文芸評論家の加藤典洋さんが、哲学者の鶴見俊輔さん、作家の黒川創さんとの鼎談の中で、次のような発言をしていた。

「なぜ日本の戦後の思想がけっこう豊かだったかというと、丸山真男みたいな、 だまっていたら東大の研究室から出ないで、そのまま法学部の教授になるような人 間が、戦争でひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で 被爆する。そういう経験がなかったら、日本の戦後は全然違っていたと思う。」 (『 日米交換船』p70)

加藤さんのこの発言を読んだとき、僕はとても違和感を感じた。

それは主に「戦争でひょいとつままれて」の部分によっている。

このような言い方からは、加藤さん自身「けっこう豊かだった」と評価している「日本の戦後の思想」というものに対する敬意というか、尊重する気持ちが感じられないからである。

それは決して「戦争でひょいとつままれて」もたらされたようなものではなかった。

ここに出てくる「丸山真男」とは、日本政治思想史家で、東京大学法学部の教授を1950年から71年まで勤めた丸山眞男さんのことである。今年2006年は、丸山さんが亡くなって10年目に当たる。その丸山さんについて、先日、苅部直『丸山眞男−リベラリストの肖像』を読んだ。苅部さんは、丸山さんが生きた時代状況と丸山さん自身の学問、思想の関連性を、具体的、評伝風に描いており、僕などにはとても読みやすかった。その苅部さんの本から、加藤さんの言う「戦争でひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で被爆する」部分を引用してみる。(なお引用は少し要約してあります。)

「(召集時、丸山は)すでに三十歳、陸軍二等兵としての教育召集であった。東京帝大の教授・助教授が徴兵されることは珍しく、まして二等兵の例はほかにない。おそらくは思想犯としての逮捕歴を警戒した、一種の懲罰であった。大学卒業者には、召集後でも幹部候補生に志願すれば、将校になる道が開かれていたが、『軍隊に加わったのは自己の意思ではないことを明らかにしたい』と、あえてそれを選ばず、丸山は二等兵のまま、所属部隊ごと朝鮮の平壌へ送られた。」(p107−108)

「(丸山は、朝鮮で病気になり東京に戻った4ヵ月後の)1945年3月、再び召集を受ける。配属されたのは、広島市の陸軍船舶司令部である。やはり二等兵であった。そして8月6日の朝、(丸山のいた)司令部から5キロメートルの地点に、最初の原子爆弾が投下された。まもなく、火傷やガラスで重症を負い、助けを求めにやってきた市民たちの群れで、司令部の広場はいっぱいになる。」(p111−112)

苅田さんによれば、丸山さんが自身の被爆体験を公に語ったのは、終戦から20年後の講演においてであった。そして「広島市民に比べれば自分は傍観者にすぎないという思いから、被爆者手帳の交付を申請することはなかった」という。

このような丸山さんの戦争体験や被爆体験を読むと、極めて不本意で理不尽な境遇に陥りながらも、そこに自分の意志というものを介在させようとする人間の強さを感じる(もっとも苅部さんの書き方が上手いということもあるのだろうけれど)。

こういったものこそ「主体性」というのであろう。

加藤さんが述べているように、僕も「日本の戦後の思想」は豊かなものであったと思う。しかしその豊かさは、「ひょいとつままれて」放り込まれた環境の中で、結果として獲得したというような、受動的で消極的なものなどでは決してなかったのである。

例えば丸山さんなら、「ひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で被爆する」ようなことが無かったとしても、きっと「東大の研究室から出ないで、そのまま法学部の教授になるような」人では無かったと思う。他の環境の下でも、そこで「主体的」に働きかけ、「日本の戦後の思想」を豊かなものにするような仕事をしていたに違いない。

そしてそのようなことは、丸山さんひとりに限ったことではなかった。こういう人たちが、「日本の戦後の思想」の裾野を形成していた。そして僕自身、その恩恵を有形無形にこうむってきたとしみじみ感じる。

それではその上で、自分は何をすればよいのだろうか。僕自身の課題がここから始まる。

「成功する方法」だけを学んで成功する方法

わたなべ ひろし (2006年6月3日 20時58分)

「失敗学」というものを提唱している畑村洋太郎さんという方が、『毎日新聞』のインタビューの中で、今の日本が「閉塞感に覆いつくされている感が ある」のは、「約1世紀にわたって追い求めてきたやり方、すなわちうまくゆく方法を徹底的に追及し、それ以外は考えないやり方が壁に当たったから」である ということを述べていた。

畑村さんの言葉を僕なりに言い換えると、「先行する成功者から成功するための方法だけを学び、それを集中的・総力的に実行することで最短で自分も成功する」というのが、日本人の行動様式であるということになるだろうか。

これはいわば「成功マニュアル」方式とでもいったものだ。

この指摘は、畑村さんも言うように、約1世紀にわたる日本社会の近現代を考える上で、非常に大事なことを含んでいると思った。

このような行動様式は、「結果」としての「成功」しか目に入らず、それに至る「プロセス」を軽視することになる。あるいは「プロセス」と いうものが、「成功」のための全くの「手段」に矮小化されてしまう。しかし「プロセス」を軽視した「成功」などというものは、一過性のものに過ぎない。そ んなものは経験として積み重ねられることがないから、せいぜい成功しました、失敗しましたという「結果」が羅列されただけの、ペラペラの歴史しか生み出せ ない。

ところが近年のグローバリゼーション、つまり米国主導の金融市場至上主義などへの日本の対応を見ていると、またぞろこの「成功マニュア ル」方式が強くなってきているような気がしてならない。それどころか、以前はまだ少なくとも「マニュアル」は自前で作成していたのが、最近の場合はそれす らなく、グローバリゼーションの本家本元である米国に全くのオンブにダッコ。マニュアルそのものを提供してもらっているような依存ぶりである。

しかもどうやらこのグローバリゼーションというものは、我が国の「成功マニュアル」方式とは相性がよいというか、指向性がとても似ているようなのだ。

例えば、哲学者の内山節さんが近著のなかで、「資本制商品経済」の特徴について次のように書いている。

「近代的な商品経済とは、商品を生産して売って利益を上げるかたちを軸にしているわけではありません。そうではなく、生産という行為をとおして貨幣量を増 殖させることをめざしているのです。(中略)貨幣からはじまり、増殖した貨幣で終わるのが資本制商品経済の運動ですから、生産→貨幣ではなく、貨幣→生産 →増加した貨幣がこの経済の軸になっています。だから手っ取り早く貨幣を増殖させるためには、何も『生産』を媒介にしなくてもよいわけで、投機的な活動に よって直接貨幣を増殖させてもかまわない、ということになります。」

ここで内山さんの言う「手っ取り早く貨幣を増殖させるためには、何も『生産』を媒介にしなくてもよい」という「資本制商品経済」の特徴を最大化し たものがグローバリゼーションであるとするならば、そこで指向されているものも、「手っ取り早い貨幣の増殖」という「成功」に対する、「商品を生産して販 売する」という「プロセス」の省略化、手段化ということである。

1990年代後半以降、特に小泉政権になってからの日本社会の「グローバリゼーション化」(「ゼーション化」って変かな?)は「異常」なほど急激である と感じていた。しかしそれは外からのものを受け入れるということだけはなく、もともと日本社会にある「成功マニュアル」方式という内発的な行動様式と呼応 した結果であると考えるならば、「異常」とも見える怒濤のような日本社会の「グローバリゼーション化」も理解できる。

僕は、日本がこの「成功マニュアル」方式から脱却する上で、戦争体験や平和憲法を軸に平和国家として国際社会に寄与する、参画するとい うことは、非常に大切な試金石であると考えている。何しろ「上下関係、タテ関係本位」とか、「一致団結して少数意見は無視する」とか、「成功マニュアル」 方式が拠り所とする方法はそこでは通用しない。自身の主体的な働きかけ、開かれた継続的な努力しか、そこに至る方法は無いのだ。

つまり「平和」というものは非常にテマヒマのかかるもので、「成功マニュアル」方式では割に合わないのである。

「平和」を目的とした行為は、その行為自体、「プロセス」そのものが、まずなによりも「平和」的なものであるか否かが厳しく問われる。しかしそこにこそまさに「平和」を目的とした行為の存在意義があるのだと思う。

戦争によって得たものは戦争によって失う

わたなべ ひろし (2006年5月10日 21時20分)

昨年は戦後60年であった。

日本近現代史家の中村政則さんは昨年出版した自著『戦後史』の中で、「貫戦史(Trans-war history)」という言葉を提唱している。

これは、僕の理解した限りでは、「戦争」を軸に戦後60年間を「戦後史」としてトータルに捉えるというものである。そして本書において著者が特に言及している「戦争」は、第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、湾岸戦争、9・11同時多発テロ、イラク戦争、そして戦後国際体制としての「冷戦」などであり、これらの戦争を画期として戦後60年を4つに時期区分している。

それでは、なぜ「戦争」が軸となるのか。

中村さんによれば、「戦争は国際関係を大きく変え、国内の政治経済、社会構造に激変をもたらし、人びとの思考や心理に大きな影響を与える」ものであり、「戦争が終わったからといって、その影響は消えるわけではない」からであるという。

戦争は戦後も次の戦争まで社会のあらゆるレベルで影響を与えるということであろうか。

ところでこの「貫戦史」という観点は、戦後だけではなく、明治から昭和20年の敗戦までの80年間にもあてはまるのではないだろうか。

それはこういうことである。

戦前の日本が国際社会におけるヒエラルキーの階梯をのぼるのに際し、最も有効な手段、最終的な手段としたのは戦争であった。戦争に勝つことによって、日本はその国際的地位を上昇させていったのである。

帝国主義国としての足場を固めるための「本源的蓄積」としての日清戦争。

先進列強のサロンに加わるため、後発の帝国主義国同士の「予選」としての日露戦争。

帝国主義列強として、利益の享受者となった第一次大戦。

このように、日本は戦争に依拠して近代化を推進してきた。

もちろん自国の強大化の手段として戦争を使うというのは、日本に限ったことではない。しかし日本は非欧米国として初めて欧米列強に伍して大国となった国であり、そのため自国の運営を他人の土俵とルールに合わせて展開しなければならなかったのであるから、国際社会における立身出世のため「戦争」に依拠しなければならない度合いというものは、欧米列強の比ではなかったと思う。

その結果、戦前の日本社会において「戦争」というものが占めるウェイトは、極めて大きなものになった。つまり日本の場合、各戦争が戦後も影響を与えたといった程度のレベルなのではなく、「最後は戦争に勝つ」ということでようやく完結するように国の仕組みそのものが出来上がっていたのではないか。

その意味で、僕は明治から昭和20年の敗戦にいたる80年間は、まさに「貫戦史」としての連続過程として捉えるべきであると思う。

しかし戦争をやって永久に勝ち続け利益を受ける一方の国家などというものは、人類史上存在していない。いつかはきっと負けることになる。それは人は必ず死ぬというのと同じく必然的なことなのである。

戦争を国力増強や国際社会における立身出世のための手段とし、パワーポリティックスに依拠した国家戦略の下、国家を運営していくとその結果はどうなるか。少なくとも日本の場合、答えは1回出ているのである。

僕たち日本国民が、アジア・太平洋戦争から学ぶべき歴史の教訓とは、「戦争によって得たものは戦争によって失う」ということだと思う。

小沢一郎と日本の政治文化

わたなべ ひろし (2006年4月18日 21時23分)

以前当コラムにおいて木村英亮さんが、有権者というものは選挙を通して割り合い的確な判断をするものだ、というようなことを書いていた。

昨夏の解散総選挙など、その小泉自民党のあまりの大勝に目を奪われがちだったが、ガセネタメール騒動を巡る一連の出来事や、そこに登場する党首を始めとする民主党の議員たちのあまりにも拙劣な言動などをみていると、あの選挙は有権者が小泉政権を圧倒的に支持したということなのではなくて、民主党政権を忌避した結果、有権者がこぞって自民党に投票したと考えた方がその実相に近いような気がしてくる。解散直前の予想通り民主党が勢いに乗って大勝し、今ごろ永田某や前原某などが政権をとっていたらと考えると心底ぞっとする。

やはり有権者は選挙によって割り合い的確な判断を下したということなのであろうか。その民主党、この度小沢一郎さんが党代表に選出された。

久しぶりにテレビに出ずっぱりの小沢さんをみた。

それにしてもこの人、自民党をおん出て(追い出されて?)この十数年間、本っとに言っていることが変わらないよねぇ。国際的責任(って言うか自衛隊の海外派兵)、政治家の強いリーダーシップ、個人の自立(っていうか「自己責任」)、普通の国(っていうか憲法改正)、そして二大政党制礼賛と、これらのボキャブラリーをいろいろ組み合わせながら、でも言っていることは結局ワンパターン。

しかしなんだかんだ言ってもずっと政治の表舞台から消えることはなかったし、なにかあると「小沢待望論」みたいなものが不思議と出てきて、とうとう今回は野党第一党の党首になってしまった。

この「小沢一郎」を存続させている力っていったい何なんだろう?

小沢さんは1993年に『国家改造計画』という著書を出している。そしてこの本の時代的役割は、ある意味で画期的なものであったと思う。

1980年代後半以降、日本をめぐる国内環境と国際環境の変化は真に大きなものであった。国際環境の変化とは、1991年のソ連邦解体によるいわゆる共産圏の消滅と、その結果「自動的」な日本の国際的地位の上昇である。国内環境の変化とは、「ジャパン アズ №1」と言われたような「高度に発達した資本主義社会」「後期資本主義社会」に日本社会がまがりなりにも至ったということであり、それに伴い「個人主義的に成熟した人々」を政治家は相手にしなければならなくなったということである。

そしてこれらの変化に対応すべく保守の側からの新しいトータルなビジョンの提示、それが小沢さんの『国家改造計画』であった。これに対して革新の側は、トータルなビジョンということでは、対案を提示することが出来なかった。

小沢さんはこの本で提出したビジョンのおかげで、いまだに政治家として食べていけているのである。小泉首相の「構造改革」など、このビジョンの焼き直しに過ぎない。きっと小沢さん自身、1990年代以降の日本が進むべき筋道を示したのは自分だという自負があるに違いない。

ところで党代表に決った日の夜、テレビのインタビューに答えて小沢さんは、「政党は政権与党にならなければ意味は無い。万年野党でも良いなどと考えているような人間は民主党から去ってもらいたい」というようなことを言っていた。

この言葉に端的に表れているように、小沢さんの「二大政党論」などというものは、せんじ詰めれば「政党などというものは政権与党にならなければ意味が無い」という、非常に狭隘な政治哲学に支えられたものに過ぎないのである。

この小沢「二大政党論」が撒き散らした、日本社会における「政治文化」上の害悪は計り知れないものがあると僕は考えている。それは議会制民主主義における「野党」的存在の否定、あるいは少数意見の軽視(無視)ということだ。彼にとって「野党」などという存在は、政権を獲る気概の無い万年野党か、政権につきたいくせに実力の伴わない負け犬ぐらいにしか認知されていないのであろう。

小沢さんの「二大政党制」とは、「マジョリティの利益の代弁者としての与党の座をめぐる争い」というものに、日本の政党政治を矮小化したのである。

このような性向は、もともと日本の政治文化において非常に強いものではあった。しかし小沢さん以降、本来政策実現のための手段であるべき「政権獲得」というものが、それ自身目的となってしまった。そしてこの目的を完遂することを前提として、政党や政治家たちがその行動をとるようになる。その結果、日本の政党政治は、野党各党による自民党との連立政権獲得競争へと、雪崩をうって堕落していく。

「万年野党に存在意義は無い」という言葉に押しやられるように社会党は自民党と連立政権を組み、その歴史的役割を終える。その後、今度は公明党が「念願」の自民党との連立を組み、「平和と福祉の党」という役割を急激に方向転換し、政権与党であることが第一目的の政党へと変わり果てることになる。

きっと小沢民主党は小泉さんと競うようにして、改憲・日米安保重視・新自由主義路線を推し進めていくことになるのだろう。

野党第一党である民主党が本当に問題とすべきなのは、与党にならなければ何も出来ないというような日本の政治システムそのものを、まさに「野党第一党」の責任として解体していくことである。

「憲法前文・九条の会」発足記念講演

わたなべ ひろし (2006年4月8日 20時45分)

作家の小田実さんは、「九条の会」発足記者会見で次のように述べている。

戦争が終わったときに国連が世界人権宣言を出しましたが、本当は世界平和宣言を出すべきだったんですが、そりゃ出せないですよね。だってみんな平和主義じゃないからです。日本国憲法というのは言ってみれば世界平和宣言なんですよ。日本国憲法に世界平和宣言としての価値が今出てきたんです。それを大いに使うべきなんです。今こそ日本がこの憲法を使わないと世界がダメになりますよ。

僕の日本国憲法というものに対するスタンスとして、小田さんのこの「世界平和宣言」という規定が最もしっくりくる。それは「普遍に開かれたテキスト」(道場親信)なのである。

改憲論などはその根拠として、占領軍の押し付け憲法だとか、限られた人間が極めて短期間で恣意的に作成したものだとかよく言われるが、僕に言わせればナンセンスである。僕は押し付けられたものであるどころか、この憲法(の精神)は、押し付けた相手とされる当の占領国=米国の行動さえも規定するものであると考えている。なにしろ世界平和宣言なんだから。

この憲法を、人類が得た世界平和宣言だと認識し、そう観念する人間にとっては、世界中の誰に対してであろうと憲法は開かれているのであるし、また規定力があるのだ。そしてそれは、日本国憲法に限らず、米国の独立宣言も、フランスの人権宣言も、国連の世界人権宣言も全く同じことなのである。

戦後、なぜ侵略国であった日本が、人類が営々として築いてきた「平和的価値」の結晶である日本国憲法を持つことになったのか。その理由は無数にあるのだろう。しかしそれは、誤解を承知で言えば、本質的な問題では無いのではないだろうか。

あえて言うならば、天の配剤か、神の意志か。そういうことなのではないか。僕はこのような憲法を持った日本の戦後というものを、人類の平和史というような観点(大きすぎるかな?ええい構うものか。なにしろ世界平和宣言なんだから)から、次のように認識している。

それは隣国を軍事力によって侵略したかつての帝国主義国家が、自業自得の大惨敗の結果、人類史上最も平和主義的な憲法とその憲法が持っている理念を手にし、この理念を内実の伴ったものとすべく、その人類史的役割を一生懸命果たしていくというものである。そしてこのような役割は、かつての侵略国家である僕の母国、日本にこそまさにふさわしいと思うのである。こんなカッコイイ役回り、世界中捜しても出来るのは日本かドイツぐらいだろう。

そしてその役割を少しでも果たそうと、無数の意志や努力が戦後60年展開されてきた。

世の改憲論議では、第九条が争点となっている。もちろん「戦争の放棄」などということを、国家の最高法規である憲法に明文化した第九条の意義は極めて大きい。だって「戦争が出来る」ということは、まさに国家にとってのレーゾンデートルだと考えられていたんだから。

しかし僕は、第九条というものは、憲法の前文とあくまで一対のものだと考えている。世界平和宣言として憲法を読んだ場合、内容から言っても、格調から言っても、前文はまさにそれにふさわしい。僕は第九条も大切だともちろん思うが、前文がとりわけ好きだ。だからイラク派兵に際し、その愚行の正当化のために、あろうことか憲法前文をその根拠として読み上げた小泉首相の行為などは、僕にとってまさに噴飯ものであった。

だいたい僕たち最近の日本人は、「日本国」憲法なんだから日本国民が好き勝手に扱ってよいだろうと、自分勝手な国内的文脈でもって、この憲法のことを考えすぎているのではないだろうか。

最近、中江兆民(1847−1901年)が次のようなことを言っているのを知った

民権是れ至理也、自由平等是れ大義也、此等理義に反する者はついに之れが罰を受けざる能はず、百の帝国主義有りといえども此理義を滅没することは終に得べからず、帝王尊しといえども、此理義を敬重してここに以てその尊を保つを得べし

この言葉は、日本近現代史・思想史家である鹿野政直さんの著書から教えてもらったものである。そして鹿野さんはこの兆民の言葉をこう意訳している。

彼(兆民)は、民権や自由平等が、究極には実現する普遍的な原理との確信を表明したのち、その原理のまえには、世界にはびこる『帝国主義』も、不動とみえる『帝王』も、相対的な存在にすぎないとの展望を持った。

「民権や自由平等の原理のまえには、『帝国主義』も『帝王』も相対的な存在にすぎない」っていうのが良いよねぇ〜。そして民権や自由平等の原理に連なるものとして、この憲法もあるのだ。だから単なる目先の国内的理屈だけで改憲などしようものなら、兆民が言うように「ついに之れが罰を受けざる能はず」となるものと、僕は確信している。

(なおこの文章は、最近出た『九条どうでしょう』という本に触発されて書きました。)

「ネジレは正さなければならない」という意識

わたなべ ひろし (2006年1月25日 21時27分)

2006年に年があらたまっても、僕は昨夏の衆院解散総選挙のことをずっと考えている。

しかしそれは、小泉自民党が圧勝した理由とかそういうことではない。

そういったことではなくて、僕がずっと考えているのは、あの選挙が持つ社会意識的な意味とでもいったものである。郵政民営化法案が参議院で否決され、小 泉首相がすかさず「民意を問う」として解散総選挙に打って出(あのときの記者会見は「圧巻」だった)、「小泉劇場」といわれるような選挙戦の結果、小泉自 民党が圧勝した、あの一連の出来事が、日本国民の意識に何をうえつけたかといった、そういうようなことである。

このような観点からあの選挙を振り返ってみるとき、最も印象に残っているのは「ネジレ」という言葉と、その使われ方である。

この「ネジレ」という言葉は、主に選挙戦前半、頻繁にテレビや新聞の報道で使われていた。例えばいくつか例を上げてみる。(なお記事の文章は要約)

衆院解散の原因を作った参院自民党の「造反組」を賛成派に変えなければ、再び郵政法案をめぐって同じ混乱が繰り返される恐れがあり、衆参の「ねじれ解消策」が衆院選の大きな論点になりそうだ。(毎日新聞 2005年8月25日)

自民党秋田県連は、「造反議員」野呂田氏推薦する方針を確認した。自民党本部が公認候補を「刺客」として決定した場合、県連と党本部がねじれの関係になるのは不可避だ。(毎日新聞 2005年8月17日)

解散・総選挙 政治のねじれ、解消の好機だ
岡田克也民主党代表が政府案の批判だけに終始したのは、党内に労組系議員など民営化反対派を抱えるためだ。民主党もそんな党内のねじれを解消して初めて、政策を通じて有権者が選ぶ政権選択選挙の土俵が整う。(毎日新聞 2005年8月9日「社説」)

参院否決の法案を衆院解散によって民意を問うのも「ネジレ」なら、自民党内の郵政関連法案反対議員を支援する県連と党本部の関係も「ネジレ」だし、野党第1党の民主党の中も民営化の可否をめぐって「ネジレ」ているという。

これらの記事に共通しているのは、「ネジレは正常な状態ではないので、正されなければならない」というトーンである。

そして有権者は、選挙を通して「ネジレ」たものがスッキリと見通しのよいものに正されていく様子をその目で見ることになった。つまり、小泉自民党の圧勝と いう選挙結果により、自民党内の「抵抗勢力」は追い出され、民主党の党首も「小泉チュルドレン」である前原誠司氏にかわり、郵政関連法案も衆参共に多数で 可決されるという具合にである。

以上のような、解散・総選挙に伴う一連のプロセスから、僕たち日本国民に醸成された「意識」とは、以下のようなものであったのではないだろうか。

「ネジレた状態はよくないので正すべきである。→○○と△△はねじれた関係にある。→それ故、○○と△△のねじれた関係は正されなければならない。→自分たちの投票行動の結果、このネジレは見通しのスッキリしたものとして改善された」

この○○と△△のところには何でも入るところがミソである。

そして小泉自民党が次にターゲットとする「ネジレ」とは、もちろん「憲法と安保・自衛隊」ということになろう。

僕の記憶では、この「ネジレ」という言葉に特別な思想的意味あいを付与したのは、加藤典洋『敗戦後論』(1997年)である。

この本のメインテーマは、日本の「戦後」にある「ねじれ」を明らかにすることである。そして筆者が「戦後」にある「ねじれ」の最たるものとして指摘してい るのは、「戦後憲法の手にされ方と、その内容の矛盾」ということ。つまりいかなる「武力による威嚇又は武力の行使」を認めないとうたっている「平和憲法」 そのものが、「原子爆弾という当時最大の『武力による威嚇』の下」、連合軍総司令部により「押しつけられた」という「矛盾、自家撞着」である。

僕は今まで、「だから我々日本国民は、戦後憲法の抱えているねじれを国民投票なり、改憲なりすることでスッキリ正し、けじめをつけなければならない」と いうのが、加藤さんがこの本で主張していることだと思い込んでいた。しかし今回読み返してみて、彼が言っているのはそういうことではないと考えるように なった。

加藤さんは、「戦後というものを考える上で、その原点にあるねじれをもっと自覚し、私たちひとりひとりが、そのことを直視し受け止めなければいけない」 ということを言っているのである。それが出来て初めて、僕たちは主体的に「戦後」と向きあうことができるようになると言うのだ。

加藤さんは次のように書いている。

「きっと、『ねじれ』からの回復とは、『ねじれ』を最後までもちこたえる、ということである。そのことのほうが、回復それ自体より、経験としては大きい」

安直な対応で、「ネジレ」にスッキリ見通しをつけることが、「戦後」の解決なのではないし、終りなのではない。

「ネジレ」ているように見えるのは、それだけの理由があることなのである。

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