投稿者「わたなべ ひろし」のアーカイブ

自省としての「戦後」

わたなべ ひろし

以前、当研究所のニューズレターで紹介しましたが、小説家の村上春樹氏がイスラエルの「エルサレム文学賞」を受賞した際、彼が受賞スピーチで語ったことは自身の父親と戦争についての記憶でした。

「私の父は昨年、90 歳で死にました。父は引退した教師で、パートタイムの僧侶でした。京都の大学院生だったときに父は徴兵されて、中国の戦場に送られました。戦後生まれの子どもである私は、父が朝食前に家の小さな仏壇の前で、長く、深い思いを込めて読経する姿をよく見ました。

ある時、私は父になぜ祈るのかを尋ねました。戦場で死んだ人々のために祈っているのだと父は私に教えました。父は、すべての死者のために、敵であろうと味方であろうと変わりなく祈っていました。父が仏壇の前に座して祈っている姿を見ているときに、私は父のまわりに死の影が漂っているのを感じたように思います。」

村上氏はこれを「私が父について話すことのできるわずかな、そしてもっとも重要なことの一つです」と述べています。

世界的に有名な日本のトップクラスの小説家が、長年他国に対して侵略行為を行ってきた国から文学賞を受け、その受賞スピーチにおいて語ったことが自身の戦争についての経験であった (もっとも村上さんは 1949 年生まれで、ご自身が戦争体験を有しているわけではありませんが) ということ。こういうシチュエーションにおいて、日本人が外国の人たちに向けて届く言葉があるとしたら、やっぱりそれはあの戦争に関する体験についてのものであるのだなあと、いまさらながら痛感させられました。そしてこのことに僕は日本の「戦後」の本質を見たような気がしました。

8 月 15 日「恒例」である中西治理事長のメーリングリスト、「1945 (昭和 20) 年 8 月 15 日を振り返って」読ませていただきました。

「私は戦争と平和の連鎖を断ち切り、平和に徹さなければならないと思っています。それができるのは「学」であり、「知」です。学ぶことによって戦争を知り、戦争を始めさせないことができます。」全くその通りだと思います。おっしゃるように、「いずれ、あの戦争を知っている日本人はいなくな」るのであり、 物理的にはそこで「戦争体験」というものは断絶することになります。それを継承していけるとしたら、「あの戦争」を知らない世代が主体的に学び、知り、伝えていくことしかありません。そしてそこにこそ、単なる体験の伝達ではなく、その時代時代の平和に向けて最も必要とされる形での「戦争体験」の発展的継承があるのだと思います。

戦後、私たち日本人はそうやって戦争体験を問い返し、深めてきました。そしてその核心は、「戦争体験」の「自省」ということ、つまり戦争体験を、「自己への問い」として捉え返すというものであったと思います※。それは、直接の戦争体験 (戦場体験) を持たない戦後生まれの人たちも含め、自分自身の問題として戦争体験というものを考えてきたということです。

これは「戦後」において非常に特徴的なことであったと思います。

変な言い方になりますが、「戦争体験」というものは、総力戦、世界戦争、戦争の世紀等々と呼ばれた 20 世紀以降、人類にとっての「共通言語」みたいなものになったのではないかと考えています (非常に残念なことですが)。ただしそれはもちろん「武器についてとくとくと語り、戦争論に花を咲かせ、戦略論をぶ」ることなどではありません。

日本国内においては戦争体験者は少数となりましたが、世界的に見れば戦争体験者は多数に上るでしょう。そういう人たちに、私たち日本人の言葉で届くものがあるとするならば、それは自省を通して「戦後」深められてきた戦争体験についての言葉しかないでしょう。そしてさまざまな戦争や紛争が、今後ますます前面化していくように見える、つまり「戦争体験者」が今後も増えていくことが予想される (非常に残念なことですが) 現在の国際社会において、世界中の人たちが自省を通して自身の戦争体験を深めていくことだけが、世界平和に向けての唯一の可能性であると私は確信しています。

日本の「戦後」は、わずかながらでもこのことを証明しているのではないでしょうか。

※この文章を書くにあたり、福間良明『「戦争体験」の戦後史』を参照しました。

「20世紀の再検討-ロシア革命を中心として」を聴いて

わたなべ ひろし

 『<帝国>』や『マルチチュード』の著者のひとりである、イタリアの思想家アントニオ・ネグリ氏が、インタビューに答えて自身のソ連評価を述べている。それは、例えばこのようなものであった。

「スターリンがいなければ、ソヴィエトが帝政ロシアを越えることはなかった。」

「スターリン主義が消滅させたのは、組織化された政治的反対派であって、国内議論ではありません。スターリン主義は、……近代的な現象なのであり、多数派による独裁体制なのです(これは民主的にもなりえました)。」

「全体主義という概念は……まったくもってイデオロギー的なものです。……全体主義の概念では抵抗や差異といったものが消えてしまうからです。……差異を考慮せずにものごとを描き出そうとするようなカテゴリーは、それ自体が全体主義的なものだと言えるでしょう。」

「ソヴィエトの指導部が打ち負かされることになったのは、……巨大な集団的知性を構築しておきながら、その集団的知性に自由な表現手段(「自由な」という箇所は三重に下線を引いて強調しておきます)を与えることができなかった[からです]。」

ラディカルなコミュニストの立場から激しくソ連を批判してきたネグリ氏にしては、思いのほか公正な評価ではないかと、これを読んだときに感じた。もっともソ連のことなどほとんど知らないこの僕が、ネグリ氏のソ連評価を読んで「公正」などと感じたのも、それが僕が大学時代以来、中西治さんから聞いてきたソ連評価と、とても近いものであったからである。ネグリ氏の言う、近代主義者としてのスターリンという評価や多数派による独裁という定義、差異を考慮しない全体主義という概念への批判や集団的知性の構築といったような話は、学生時代から中西さんの講義により僕がずっと親しんできたものであった。

先日、当研究所の研究会において、久しぶりにその中西さんのロシア革命論をお聞きした。

中西さんはその報告の中で、最近の日本とドイツ・ロシアにおけるロシア革命論を紹介した後、「日本のロシア研究者は十月革命を短期的にとらえ、それが生み出したソヴェト社会のマイナス面を分析しているが、ドイツ・ロシアの研究者はロシア革命を長期的にとらえ、その積極面を指摘し」ているとまとめていた。

僕などはロシア革命研究の専門家でもなんでもなく、意見を述べるのもおこがましいのかもしれないが、この報告のみを聞いた限りでは、中西さんの評価とは少し違う印象を、ここで紹介されている日本とドイツ・ロシアのロシア革命論に対して持った。

例えばリンツというドイツの研究者は「ロシア革命は……社会主義革命であっただけではなく、現代(Modern)の革命であったが故に、画期的な現象であった。この革命のあと、この革命のおかげで、ロシアは世界的な基準で現代の国家となった。そのあとソヴェト・ロシアで起こったすべてのこと、たとえば、工業化、教育制度改革、生活様式と都市建設での変化は現代化の課程の軌道のうえに進んだ。……これは一定の社会的プロジェクトであった」と述べているという。

リンツ氏の言う通り、一国の社会を発展させるということでは、非常にロシア革命は有効であったのであり、それ故、例えば独立したばかりで国家建設の途上にあった非欧米諸国などが、ロシア革命やソ連型社会主義を自国の社会発展モデルとして見習ったのであろう。

ただ僕が気になったのは、リンツ氏が、ロシア革命は「世界全体に大変多くのことをもたらした」と述べておきながら、結局「現代の革命」として彼があげているのは、「工業化、教育制度改革、生活様式と都市建設での変化」といった一国の社会内での成果ばかりであるということであった。ロシア革命の結果、ロシア社会が発展し、豊かになったということは、間違いなく歴史的偉業だと思う。その上で、しかしこれをもって「21世紀のための挑戦」などと言われると、例えば1960年代に流行った近代化論などと何処が違うのであろうかと言いたくなる。ロシア革命に「21世紀への挑戦」という側面があるとするならば、それはその先にあるものなのではないだろうか。

このような観点から、中西さんが紹介されたロシア革命論の中で、僕が最も印象に残ったのは塩川伸明氏のものであった。塩川氏は「ロシア革命は「自由・平等・友愛」のスローガンで知られているフランス革命とは違って、その目標を単純な標語では集約しにくい革命であることを指摘」した上で、「平和」「自由」「土地」「パン」「社会主義」といった「革命時に最も中心的なスローガン」について考察している。

この中で僕が重要だと思うのは、「平和」である。革命時のスローガンとしての「平和」について、塩川氏は「「平和」とは、直接には第一次世界大戦の早期終了を指すが、より広くは「戦争のない世界」への希求があった」と述べている。ロシア革命における「平和」のスローガンには、「「戦争のない世界」への希求」という、普遍的な意味合いがあったのであり、これこそが僕にとっては、中西さんから学んだロシア革命論の核心であった。

「革命」というものが、新しい普遍的価値の提示であり、部分的なりともその実現であるという側面があるとするならば、アメリカ独立革命の「植民地(被支配者)の独立・解放」や、フランス革命の「自由・平等・友愛」に匹敵するのものは、ロシア革命の場合「平和」である。革命政権樹立の翌日(!)、革命政権が最初にした仕事である、第一次大戦の全ての交戦国に対して即時「民主的」講和を訴えた「平和の布告」以来、「平和」はソ連体制の一貫した「理念」であり、「政策の柱」であった。

『ソ連の外交』のむすびにおいて、中西さんは次のように書いている。

われわれはソ連が建国以来行った平和のための努力を正しく評価すべきであろう。ソヴェト政権は率先して第一次大戦から離脱し、大衆に平和を与えた。内戦と外国の軍事干渉に打ち勝ったソ連は、全般的軍縮を提案した。この提案は各国によって拒否され、時代はファシズムを生みおとし、軍拡と戦争への道を進んだが、ソ連のこの全般的軍縮の提案は人類史の中で画期的な意義を持つものであった。両大戦間におけるヨーロッパ安全保障への努力も無視することはできない。第二次大戦におけるソ連の役割はとくに高く評価されるべきである。ソ連は多大の犠牲を払いながら、ナチス・ドイツの侵略に抵抗し、ファシズムを粉砕するうえで重大な役割を果たした。これは人類に対する偉大な貢献であった。第二次大戦後においてもソ連は世界平和の維持と国際緊張緩和の面で一定の貢献をした。マルクス・レーニン主義は二十世紀前半の平和思想として、ソ連という世界最初の社会主義国家を通じて、有効な思想であることを立証したと言い得るであろう。  

僕は、「21世紀のための挑戦」として、ロシア革命が持っている意義は「平和」の理念の提示、それは中西さんにならって言えば「国際社会の民主化」ということだと思う。しかし現在のロシアからは、この方面の発信があまり感じられないような気がするのは、僕の無知故のことなのであろうか。

  

沖縄訪問団結団式に参加して

わたなべ ひろし

2月15日に八王子で行われた、研究所の沖縄訪問結団式を兼ねた研究会に参加した。報告者は会員の玉井秀樹さんと中西治理事長のお二人であった。

玉井さんの報告は、戦後における沖縄の米軍基地の問題を概観し、その上でどうしたら米軍基地を縮小、全面返還できるのかということを、沖縄に米軍基地を一方的に押しつけている日本人として、そして平和研究を専門とする者として(さらに当研究所の会員の一人として)、何よりも自分自身に問うという真摯なものであり、非常に共感することができた。

報告後の質疑応答の際、沖縄の米軍が出て行くかどうかは、まず何より米国の問題なのではないか、そして米軍にその意思が無い限り沖縄の基地はなくならないのではないかと質問すると、玉井さんからは、沖縄における米軍基地の存在は、米軍の意思というより、日本人(日本本土人)の思惑の結果ではないのかという答えが返ってきた。全くおっしゃる通り。僕も全面的に同意します。

ただ欲を言えば、玉井さんはこれまでの日本人による沖縄へのかかわり方に対して非常に批判的であったが(そして僕もそう思うが)、それでも沖縄における反基地闘争と、本土における平和と民主主義の為のさまざまな思想や運動は、戦後史の中でお互いに影響を与え合ってきた部分も少なからずあったのではないだろうか。その点を、それこそ日本人として、平和研究者として、(そして当研究所の会員として)玉井さんには明らかにしていただけたらと思いました。

中西理事長も、報告の中で沖縄戦に触れていた。

中西さんによれば、英国首相のチャーチルは、沖縄戦において戦火の中に次々と自身の命を投じていく沖縄のひとたちの姿を目の当たりにし、戦慄したというのである。そして彼は、こんな日本人相手に本土決戦など行えば、連合国軍兵士の死者が何十万人出るか分からないと恐怖し、ソ連の速やかな対日参戦を促したということであった。

僕は中西さんからこの話をお聞きして、沖縄戦の酷さがあの第二次大戦の終わり方や、戦後の国際体制構築に向けた指導者たちの様々な思惑などに大きな影響を与えていたことを知り、非常に納得するものがあった。ある本によれば、沖縄住民の4人に1人は沖縄戦で亡くなっているそうである。それ程多数の死というものが、歴史に対して何の影響も与えないなどということはあるはずが無いと思ったからである。

日本近現代史家である大江志乃夫氏は、日本の戦後史をまとめた著作を、沖縄戦の叙述から始めている。そして大江さんは次のように序章を結んでいる。

沖縄が切り捨てられたところから、戦後の日本国の歴史ははじめられている。……あくまで戦後の沖縄にこだわりつづける立場から、日本の激動の歴史にいどみたいと考えたのである。したがって、この[本書における]戦後は、八月一五日ではなく、六月二三日から始まる。

僕は学生時代に大江さんのこの文章を読んで、日本の「戦後」と沖縄の関係、同じ「日本国民」であっても「戦後」の意味は決して一様なものではないということを教えてもらった。

当研究所の沖縄初訪問が、実り多きものでありますよう祈っております。

ベトナム戦争を遠く離れて

わたなべ ひろし

先月行なわれた当研究所の総会記念講演で、東大の古田元夫教授のお話しを聞かせていただいた。古田さんの専門はベトナムとのこと。

古田さんのお話しによれば、2000年以降のベトナムの経済成長は著しいものがあるようで、平均成長率は8%に達するという。そしてベトナムの経済成長の特徴として、古田さんは外資の流入とIT化を上げていた。これが両輪となって、ベトナムを「貧困な発展途上国」から「現代的な工業国」へと押し上げているということであった。

僕などが特に面白かったのは、現在のベトナムは社会主義か否かという点についての古田さんのお話しであった。ベトナム自身は、自分たちの経済を「社会主義指向の市場経済」と規定しているそうだが、いかにも苦しい感じ。一方、古田さんもベトナムを社会主義国として定義づけておられるのだが、その理由はといえば、資本主義以外の選択肢が存在しない現在の世界において、「あえて」(このカギ括弧は古田さんのレジメより)社会主義の国号を名乗っているのであるから、それは社会主義とみなしてよいのではないかというものであった(と思う)。

古田さんのような良い方(スミマセン、そうお見受け致しましたもので)に、ベトナムはがんばって社会主義を名乗っているのだからそれを認めてあげようと言われても、当のベトナムの「社会主義者」の方々は、非常に複雑な思いを抱くのではないだろうか。

1960年代、ベトナム戦争と向き合うことで(古田さんなどもそのお一人であったのだろう)、日本の反戦平和の思想がどれほど「豊か」なものになったことか、僕はベトナムと聞くとまずこのことを考える。そのことで、いわゆる「アジア」というものが僕たち日本人の視野に入ってくるようになり、それまでの被害者意識に立った「戦争体験」に依拠していた日本人の反戦平和意識というものが、自分たちのかつてのアジア侵略に対する加害者責任を伴ったものへと転換していく重要な契機となったと思うからである。

そして、例えば米国の日本研究者であるトーマス・ヘイブンズの『海の向こうの火事―ベトナム戦争と日本1965-1975』などを読むと、当時の「ベ平連」などに代表される日本の反戦運動が、米国で展開されていたベトナム反戦運動からどれほど多くのことを学んでいたかということがよく分かる。戦後の日本の「平和」は、日本一国のみで成立したわけでは決してないのである。

2008年の現在から、ベトナム戦争に関連してある種の感慨を持って思い出すのは、1971年のニクソン米大統領による、いわゆる「ドル・ショック」である。

米国はベトナム戦争の戦費を賄うためドルを垂れ流し、その結果国際基軸通貨としての信用を失い、金との交換停止を宣言することで、為替が固定相場制から変動相場制へと移行する。そしてこの変動相場制による為替市場の出現と、その後のITの発達を背景として、90年代以降の金融市場至上主義のグローバリゼーションが出来することになった。

古田さんが言うように、現在のベトナムの経済成長を支えているのが外資の流入とIT化であるとすると、そもそもそれをもたらしたグローバリゼーションそのものを生み出す遠因を作り出したのがベトナム自身なのであるから、現在の彼等の経済成長もむべなるかなということなのかもしれない。

ひとつのアメリカ論

わたなべ ひろし

僕がよく覗いているブログの中に、次のような「アメリカ論」があった。

「中国もそうだけど、アメリカという国は本当に優秀。自分たちの利益になるために、どこにどう作用すれば、どういう力が働いて自分たちのために動くのかをよく研究して理解していると思います。」
http://yaplog.jp/dione/category_1/

これは僕がいつもアメリカという国に対して感じていることでもある。そしてアメリカのこのような「優秀性」は、イケイケドンドンの絶好調なときよりも、変動期や転換期など、大変なときにとりわけ発揮されるのではないだろうか。例えば「ピンチはチャンス」とか、「ころんでもタダでは起きない」とか、アメリカのためにあるような言葉だとしみじみ思う。これらの言葉は、本来ひとつの「人生観」みたいなものなのであろうが、それがアメリカ人の手にかかると、そういうことを実現するための具体的な「手法」みたいなものを、実際に彼等は「開発」しているような、そんな気にさえさせられる。

金融工学の今野浩さんの本にこんなことが書いてあった。

「1980年代半ばはバブルの初期に当り、巨額の利益を手にした日本の金融機関が雪崩を打って海外に進出した際、彼らがウォール街で目にしたのは、不況の宇宙産業から転出したロケット・サイエンティストと高エネルギー加速器プロジェクトの打ち切りで職を失った物理学者たちの群れであったという。折から金融派生商品が投資家の人気を集める中、新商品開発や試算運用の場面で、数理工学と計算機に強い「クオンツ」たちが華々しい活動を行なっていた。」(『金融工学の挑戦』p4-5、なお引用は要約)

今野さんのこの記述を読んで、ここにアメリカの「優秀性」というものを考えるヒントがあるような気がした。それを言葉にすると「特定の問題領域や課題を(競技場みたいに)フィールドとして設定し、そうすることでそこに人材や資本が殺到するようになり、よってたかって打開策を案出する」というような感じだろうか。

具体的に言えば、例えばここでは「金融」というものを、いわゆる「経済学」と切り離し、純粋に「工学」的フィールドに設定することで、特に経済学的な専門知識があまり無くとも、「数理工学と計算機に強」ければ誰でもマーケットに参入できるようなものにしたということなのである。こうすることで、特定の問題や課題を解決するために調達できる人材や資本の幅が格段に広がり、しかもその調達先が「不況の宇宙産業から転出したロケット・サイエンティストと高エネルギー加速器プロジェクトの打ち切りで職を失った物理学者たち」というのだから、斜陽分野から新興分野への人的資本や高度技術の再利用にもなっている。

そして今では、経済の分野の中で金融工学がメインストリームとなり、アメリカ主導のグローバリゼーションを引っ張っている。

こういうやり方、つまり「衆の力を頼めるような形にフィールドを設定し、よってたかって問題を解決する」というやり方は、競争相手や困難な局面が明確なとき、一層その威力を発揮する。なぜならそういうときはフィールドを設定しやすいし、課題(敵?)が明確な分、自分の現在手持ちの技術やキャリアがどの程度そこで有効か目算がつきやすいため、人材の流入もそれだけ容易になるからである。

ところがアメリカのこういうやり方は、有効性が大きい分、それだけ大きな欠点もそこに内在させているのではないだろうか。それは、一度走り出したら躊躇が無くなるというか、抑えが効かなくなるということである。僕がアメリカの「優秀性」に感心しながらも、彼等に対していつも抱いている危惧がこれである。

19世紀のフランス人、アレクシス・ド・トックビルは、自著である『アメリカのデモクラシー』の中で、「平等な多数者」というものに依拠するアメリカのデモクラシーに、特権階級に依拠する母国フランスの「アリストクラシー」とは異なる強さを感じ、そこに歴史的な次代性を見て評価をしている。

しかしその一方でアメリカのデモクラシーが、多数者を拡大し、多数者に依拠するあまり、多数者しかいなくなってしまうという状況、少数者や反対者がいなくなってしまうという状況を常に出来させる可能性をそこに含んでいると指摘する。彼はそれを「多数の専制」と呼んだ。

「一つの問題に関して多数(派)がいったん形成されると、その行く手に障碍というべきものは何もない。行く手をさえぎるといわないまでも、その速度を鈍らせ、それが行きずりに押しつぶしていくものの苦情に耳をかす余裕をもたせるものはないのである。このような事態から生まれる諸結果は、将来にとって不吉で危険である。」

この記述など、「9.11」以降のアメリカそのものではないだろうか。

しかし同時にトックビルは、アメリカ社会が備えている「多数の専制」を抑制する仕組みについてもつぶさに観察している。それは具体的には、タウンなどの地域自治体であり、司法制度であり、習俗とりわけ宗教などである。これらの専制抑制装置は、今のアメリカにおいてどのようなことになっているのであろうか。

「多数の専制」からいかに覚醒し平静に戻っていくことができるのか。今のアメリカに対する僕の関心は、この1点に尽きる。

(なお『アメリカのデモクラシー』は、中公バックス版『世界の名著40』所収の岩永健吉郎訳を参照しました。)

外来と伝統

わたなべ ひろし

近代における欧米の所産である「民主主義」というものは、欧米社会自身が近代国家を建設する上で自分たちの理念としたというばかりではなく、外へ向けてのひとつの発信でもあった。そしてその発信に呼応して、非欧米地域を含め、世界中からの返信がなされてきた。例えば中国の革命がそうであろう、ヴェトナム戦争がそうであろう、旧植民地の独立がそうであろう。

その結果、欧米諸国は、自分たちが創り出し、自分たちのものであると考えていた「民主主義」というものが、ある意味非常に発展というか、成長した姿を目の当たりにすることになる。「なるほど。我々の民主主義というものは、このような潜在力、可能性を持っていたものであったのか」という具合に。そしてそのことをもって、欧米諸国自身もまた自分たちの「民主主義」というものを、改めて問い直すことになる。

ただその際、返信をする側も、外来のものである「民主主義」の理解を全くの真空状態から始めるわけではないだろう。「欧米のこの考えは、我々のことばでいうと何に当たるのだろうか?」という具合に、その外来物に対する自身の理解を固めていくはずである(と思う)。そしてそこから自分たちの歴史や伝統に対する再認識も生まれてこよう。ここに良い意味でも悪い意味でも「伝統」と「外来」の結びつく背景がある。

コミュニケーションというものの核心は、「自分が相手に向けたことばが、その相手を通して自分に投げ返されてくるとき、それはより深い新たな真実をはらんで返ってくるという点」(岡本夏木)にある。そして「民主主義」を介した世界的な発信と応答の歴史は、まさにこのコミュニケーションの核心を地でいったものであった。このように人類は相互に影響し合いながら、「民主主義」というものを共通の財産として発展させてきたのである。

そして日本の近・現代史もまた、欧米諸国の発したことばの束(=文明)に対する呼応のひとつであった。日本は近代化=欧米化を国家的指針とし、その観点から欧米のあらゆる文物を精査すべき対象として吟味してきた。後追いするものが先行者に倣おうとする場合、先行者の有する特徴・本質を純粋化、あるいは極端化することで効率的に理解なり、受容しようとするものであり、日本の場合はその典型であった。つまり日本に入って来る欧米の文物は、いかなるものも純粋化、極端化を通って認識されることになる。

小西豊治『憲法「押しつけ」論の幻』を読んで、僕は今述べてきたようなことを考えた。小西さんは、日本政治思想史・日本法制史、特に自由民権期の憲法構想研究の専門家であり、そんな著者が「現行憲法を見れば見るほど、自由民権期憲法構想の精髄が表現されているように思えてならないのだが、誰も言おうとしないのが、不思議でならなかった」として、6~7年かけて著したのが本書であるという。

この本の中に次のような場面が出てくる。

「ノルマン氏が総司令部の人たちから「日本に民主主義的な伝統があったのか。」と聞かれたので、「あつた、植木枝盛という人がいた。ミスター鈴木はそれを研究している。」ということを彼らにすでに教えていたわけです。」(pp. 106~107)

「ノルマン氏」というのは、カナダ人の日本研究者であるハーバート・ノーマン(1909~57年)のことである。彼は当時カナダ外務省から少佐待遇で総司令部に派遣されていて、マッカーサーの信任も厚かったという。また「ミスター鈴木」というのは、大日本帝国憲法の成立史、特に自由民権期の私義憲法案の研究者(つまり小西さんの専門と一緒ということになる)鈴木安蔵(1904~83)のことで、当時彼は民間の「憲法研究会」に参加し、憲法草案の作成に励んでいた。そして鈴木が草案作成に際して依拠していたのが、自由民権運動期の私議憲法、なかでも植木枝盛の「日本国国憲案」であった。植木の「国憲案」は非常にラディカルなもので、その特徴はフランスに学んだ主権在民と人権保障の徹底であり、革命権や国籍離脱の自由まであったという。

ここから分ることは、当時の占領軍は自分たちの民主主義を被占領国である日本に一方的に押しつけるのではなく、日本に民主主義的伝統が存在するのであれば、それに根ざしたものを作ろうとしていたということである。そしてそのような意志があったが故に、ノーマンを介して鈴木安蔵の憲法草案と植木枝盛と彼を生み出した自由民権運動という日本の「民主主義的伝統」に辿り着くことができたのである。

ところで小西さんが本書を書くに当たって、もうひとつ別の裏テーマ(?)があったような気がする。それは「イラク戦争」である。

小西さんによれば、ブッシュ米大統領がイラク戦争に踏み切った理由として「イラクへの武力制裁」と「イラクの民主化」の2つがあり、「イラクの民主化」実現の裏づけとして、「第二次大戦後、ファシズム日本がデモクラシー国に生まれ変わったという成功体験がある」のだという。そして同じ戦後占領でもイラクの民主化は上手くいかず、日本の民主化は成功するに到ったその理由を、日本の民主化の成功には日本の近現代史に通暁したノーマンの存在が大きく、現在のイラン占領軍の中にはノーマンのような存在がいないためであると著者は述べている。

小西さんの言うように、確かにノーマンの不在ということは大きいと思う。しかしそれはイラク占領が上手くいかない原因なのではなく、現在のような占領政策からくる当然の結果なのだ。それは、はなからノーマンの存在など必要としてはいない。

僕は現在のイラクにも鈴木安蔵や植木枝盛はいると思うし、「民主主義的伝統」(それは形は違うかもしれないが)は存在していると思う。問題なのは、「イラクに民主主義的な伝統があったのか。」と真摯に問う人間が、占領軍(つまり僕たち)の側にいないということなのである。そしてそれは、自分たちの「自由主義」や「民主主義」は絶対に正しいものとして、一方的にイラクに「押しつけ」ようとしている、今の占領軍(つまり僕たち)の閉じられた思考に原因している。そこでは自分で発している言葉に対する自省というものが決定的に欠落しているのである。

自分たちが呼号している「自由」や「平和」や「民主主義」ということばそのものを見つめ直してみることが、今必要なときなのである。そうすればイラクの人たちの声も聞こえてくるようになるのだろう。

市場・国家・社会

わたなべ ひろし

ここ数年、「仕事」に関する本が増えてきているように思う。しかしそれはいままでよくあった「ビジネス書」の類ではない。大学の先生や公的研究機関の研究員などが、統計データやアンケート調査を駆使し、「社会学的」に分析しているのが最近増えている「仕事本」の特徴である。

考えてみれば、近年話題になっているフリーターやニートの問題、失業率の問題、所得格差拡大の問題、3万人以上にのぼる自殺者数の高止まりの問題、これら全てが「仕事」や「働く」ということと深く関連している。

1980年頃からか、日本社会を語るキーワードとして、「消費」が重視されてきた。しかしそれが10年以上にわたる長期構造不況やグローバリゼーションの受容の結果、再び「仕事」や「働く」ということが、日本社会を語る論点の中心になってきたということなのであろうか。

政府の「再チャレンジ推進会議」が、中間とりまとめを発表した。議長は、あの安倍晋三官房長官である。

この報告書を読むと、「人生の複線化」、つまり「再チャレンジを可能とする柔軟で多様な仕組みの構築」をその目的とするとのことで、具体的には中途採用の拡大、正規・非正規労働者間の均衡処遇、社会人の「学び直し」の推進、農林漁業の就業支援、リストラ退職者や定年後の再就労、病気になった人や障害者の就労支援、自殺予防、事業失敗者・多重債務者・罪を犯した人・育児等で退職した女性の再チャレンジ支援、子供・生活保護世帯・母子家庭へのチャレンジ支援などといった言葉が並んでいる。フー

これだけ揃えればモンクはあるまい!という感じの文書である。なんでも安倍さんを支持する議員たちが「再チャレンジ推進議員連盟」というものを結成しているとのこと。

この「中間とりまとめ」について、僕がよくのぞくブログに次のように書いてあった。

「2002年のホームレス自立支援法、2006年の障害者自立支援法・自立支援医療に続いて、フリーターを組み込む自立支援法が始まろうとしている、と考えられる。生活保護の自立支援プログラム化の流れもあった。『自立支援』は社会保障分野の鍵となる言葉だ。社会全般を覆いつくしつつある。」

「自己責任」の次は「自立支援」かあ。しかもこのふたつは連動しているようで、要は「自己責任」をちゃんと果たせるように、まずは各自に自立していただく必要があり、そのための支援を国がしますよということなのである。

国民全員が市場にとって有用な存在、つまり「賭場」である市場に参加できる「掛け金」を持った存在として自立できるように、フリーターやニートはもちろん、クビや倒産した人から生活保護家庭、障害者にいたるまで、残らずガンバッテ「再チャレンジ」していただこうというのがそのココロか。結局は「市場」ガラミの話。

つまりここでいうところの「人生の複線化」、「再チャレンジの推進」とは、市場のニーズに合わせて、国家が社会に介入し管理するためのルートを作成するということなのである。

仕事や働くという行為は、「生活の糧」や「生き甲斐」を得る手段といった個人レベルのことばかりでなく、「相互関係」や「協働」や「参加」といった、社会を成立させる上で重要な他者との関係性を形成する場、契機でもある。

しかし、例えば政府の「再チャレンジ推進会議」の中間とりまとめなどを読むと、「生活の糧」や「生き甲斐」を得る手段としての「仕事」や「働くこと」の面、個人レベルの面を強調することで、全体として市場的な方向に話しを持っていこうとしているのが分る。例えば「全ての人間は自分の可能性を持っているのであり、それをムダにしてはいけない」とか、「あなたにはあなたにしか出来ない仕事がある」とか、「国民一人ひとりが自立して生きていける強さを身につけていきましょう」とか言って。でもこんなご時世、こういうのって訴求力があるんだよねェ。

しかしこれでは「社会」の領域、役割は小さくなっていくばかりである。

市場や国家ではなく、「社会」を媒介とした、つまり「相互関係」や「協働」や「参加」を媒介とした「自立」ということを、僕たちはもっと考える必要があるのではないだろうか。

戦後社会を支えたもの 承前

わたなべ ひろし

文芸評論家の加藤典洋さんが、哲学者の鶴見俊輔さん、作家の黒川創さんとの鼎談の中で、次のような発言をしていた。

「なぜ日本の戦後の思想がけっこう豊かだったかというと、丸山真男みたいな、 だまっていたら東大の研究室から出ないで、そのまま法学部の教授になるような人 間が、戦争でひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で 被爆する。そういう経験がなかったら、日本の戦後は全然違っていたと思う。」 (『 日米交換船』p70)

加藤さんのこの発言を読んだとき、僕はとても違和感を感じた。

それは主に「戦争でひょいとつままれて」の部分によっている。

このような言い方からは、加藤さん自身「けっこう豊かだった」と評価している「日本の戦後の思想」というものに対する敬意というか、尊重する気持ちが感じられないからである。

それは決して「戦争でひょいとつままれて」もたらされたようなものではなかった。

ここに出てくる「丸山真男」とは、日本政治思想史家で、東京大学法学部の教授を1950年から71年まで勤めた丸山眞男さんのことである。今年2006年は、丸山さんが亡くなって10年目に当たる。その丸山さんについて、先日、苅部直『丸山眞男−リベラリストの肖像』を読んだ。苅部さんは、丸山さんが生きた時代状況と丸山さん自身の学問、思想の関連性を、具体的、評伝風に描いており、僕などにはとても読みやすかった。その苅部さんの本から、加藤さんの言う「戦争でひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で被爆する」部分を引用してみる。(なお引用は少し要約してあります。)

「(召集時、丸山は)すでに三十歳、陸軍二等兵としての教育召集であった。東京帝大の教授・助教授が徴兵されることは珍しく、まして二等兵の例はほかにない。おそらくは思想犯としての逮捕歴を警戒した、一種の懲罰であった。大学卒業者には、召集後でも幹部候補生に志願すれば、将校になる道が開かれていたが、『軍隊に加わったのは自己の意思ではないことを明らかにしたい』と、あえてそれを選ばず、丸山は二等兵のまま、所属部隊ごと朝鮮の平壌へ送られた。」(p107−108)

「(丸山は、朝鮮で病気になり東京に戻った4ヵ月後の)1945年3月、再び召集を受ける。配属されたのは、広島市の陸軍船舶司令部である。やはり二等兵であった。そして8月6日の朝、(丸山のいた)司令部から5キロメートルの地点に、最初の原子爆弾が投下された。まもなく、火傷やガラスで重症を負い、助けを求めにやってきた市民たちの群れで、司令部の広場はいっぱいになる。」(p111−112)

苅田さんによれば、丸山さんが自身の被爆体験を公に語ったのは、終戦から20年後の講演においてであった。そして「広島市民に比べれば自分は傍観者にすぎないという思いから、被爆者手帳の交付を申請することはなかった」という。

このような丸山さんの戦争体験や被爆体験を読むと、極めて不本意で理不尽な境遇に陥りながらも、そこに自分の意志というものを介在させようとする人間の強さを感じる(もっとも苅部さんの書き方が上手いということもあるのだろうけれど)。

こういったものこそ「主体性」というのであろう。

加藤さんが述べているように、僕も「日本の戦後の思想」は豊かなものであったと思う。しかしその豊かさは、「ひょいとつままれて」放り込まれた環境の中で、結果として獲得したというような、受動的で消極的なものなどでは決してなかったのである。

例えば丸山さんなら、「ひょいとつままれて、二等兵として変なところに放り込まれ、広島で被爆する」ようなことが無かったとしても、きっと「東大の研究室から出ないで、そのまま法学部の教授になるような」人では無かったと思う。他の環境の下でも、そこで「主体的」に働きかけ、「日本の戦後の思想」を豊かなものにするような仕事をしていたに違いない。

そしてそのようなことは、丸山さんひとりに限ったことではなかった。こういう人たちが、「日本の戦後の思想」の裾野を形成していた。そして僕自身、その恩恵を有形無形にこうむってきたとしみじみ感じる。

それではその上で、自分は何をすればよいのだろうか。僕自身の課題がここから始まる。

「成功する方法」だけを学んで成功する方法

わたなべ ひろし

「失敗学」というものを提唱している畑村洋太郎さんという方が、『毎日新聞』のインタビューの中で、今の日本が「閉塞感に覆いつくされている感が ある」のは、「約1世紀にわたって追い求めてきたやり方、すなわちうまくゆく方法を徹底的に追及し、それ以外は考えないやり方が壁に当たったから」である ということを述べていた。

畑村さんの言葉を僕なりに言い換えると、「先行する成功者から成功するための方法だけを学び、それを集中的・総力的に実行することで最短で自分も成功する」というのが、日本人の行動様式であるということになるだろうか。

これはいわば「成功マニュアル」方式とでもいったものだ。

この指摘は、畑村さんも言うように、約1世紀にわたる日本社会の近現代を考える上で、非常に大事なことを含んでいると思った。

このような行動様式は、「結果」としての「成功」しか目に入らず、それに至る「プロセス」を軽視することになる。あるいは「プロセス」と いうものが、「成功」のための全くの「手段」に矮小化されてしまう。しかし「プロセス」を軽視した「成功」などというものは、一過性のものに過ぎない。そ んなものは経験として積み重ねられることがないから、せいぜい成功しました、失敗しましたという「結果」が羅列されただけの、ペラペラの歴史しか生み出せ ない。

ところが近年のグローバリゼーション、つまり米国主導の金融市場至上主義などへの日本の対応を見ていると、またぞろこの「成功マニュア ル」方式が強くなってきているような気がしてならない。それどころか、以前はまだ少なくとも「マニュアル」は自前で作成していたのが、最近の場合はそれす らなく、グローバリゼーションの本家本元である米国に全くのオンブにダッコ。マニュアルそのものを提供してもらっているような依存ぶりである。

しかもどうやらこのグローバリゼーションというものは、我が国の「成功マニュアル」方式とは相性がよいというか、指向性がとても似ているようなのだ。

例えば、哲学者の内山節さんが近著のなかで、「資本制商品経済」の特徴について次のように書いている。

「近代的な商品経済とは、商品を生産して売って利益を上げるかたちを軸にしているわけではありません。そうではなく、生産という行為をとおして貨幣量を増 殖させることをめざしているのです。(中略)貨幣からはじまり、増殖した貨幣で終わるのが資本制商品経済の運動ですから、生産→貨幣ではなく、貨幣→生産 →増加した貨幣がこの経済の軸になっています。だから手っ取り早く貨幣を増殖させるためには、何も『生産』を媒介にしなくてもよいわけで、投機的な活動に よって直接貨幣を増殖させてもかまわない、ということになります。」

ここで内山さんの言う「手っ取り早く貨幣を増殖させるためには、何も『生産』を媒介にしなくてもよい」という「資本制商品経済」の特徴を最大化し たものがグローバリゼーションであるとするならば、そこで指向されているものも、「手っ取り早い貨幣の増殖」という「成功」に対する、「商品を生産して販 売する」という「プロセス」の省略化、手段化ということである。

1990年代後半以降、特に小泉政権になってからの日本社会の「グローバリゼーション化」(「ゼーション化」って変かな?)は「異常」なほど急激である と感じていた。しかしそれは外からのものを受け入れるということだけはなく、もともと日本社会にある「成功マニュアル」方式という内発的な行動様式と呼応 した結果であると考えるならば、「異常」とも見える怒濤のような日本社会の「グローバリゼーション化」も理解できる。

僕は、日本がこの「成功マニュアル」方式から脱却する上で、戦争体験や平和憲法を軸に平和国家として国際社会に寄与する、参画するとい うことは、非常に大切な試金石であると考えている。何しろ「上下関係、タテ関係本位」とか、「一致団結して少数意見は無視する」とか、「成功マニュアル」 方式が拠り所とする方法はそこでは通用しない。自身の主体的な働きかけ、開かれた継続的な努力しか、そこに至る方法は無いのだ。

つまり「平和」というものは非常にテマヒマのかかるもので、「成功マニュアル」方式では割に合わないのである。

「平和」を目的とした行為は、その行為自体、「プロセス」そのものが、まずなによりも「平和」的なものであるか否かが厳しく問われる。しかしそこにこそまさに「平和」を目的とした行為の存在意義があるのだと思う。

戦争によって得たものは戦争によって失う

わたなべ ひろし

昨年は戦後60年であった。

日本近現代史家の中村政則さんは昨年出版した自著『戦後史』の中で、「貫戦史(Trans-war history)」という言葉を提唱している。

これは、僕の理解した限りでは、「戦争」を軸に戦後60年間を「戦後史」としてトータルに捉えるというものである。そして本書において著者が特に言及している「戦争」は、第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、湾岸戦争、9・11同時多発テロ、イラク戦争、そして戦後国際体制としての「冷戦」などであり、これらの戦争を画期として戦後60年を4つに時期区分している。

それでは、なぜ「戦争」が軸となるのか。

中村さんによれば、「戦争は国際関係を大きく変え、国内の政治経済、社会構造に激変をもたらし、人びとの思考や心理に大きな影響を与える」ものであり、「戦争が終わったからといって、その影響は消えるわけではない」からであるという。

戦争は戦後も次の戦争まで社会のあらゆるレベルで影響を与えるということであろうか。

ところでこの「貫戦史」という観点は、戦後だけではなく、明治から昭和20年の敗戦までの80年間にもあてはまるのではないだろうか。

それはこういうことである。

戦前の日本が国際社会におけるヒエラルキーの階梯をのぼるのに際し、最も有効な手段、最終的な手段としたのは戦争であった。戦争に勝つことによって、日本はその国際的地位を上昇させていったのである。

帝国主義国としての足場を固めるための「本源的蓄積」としての日清戦争。

先進列強のサロンに加わるため、後発の帝国主義国同士の「予選」としての日露戦争。

帝国主義列強として、利益の享受者となった第一次大戦。

このように、日本は戦争に依拠して近代化を推進してきた。

もちろん自国の強大化の手段として戦争を使うというのは、日本に限ったことではない。しかし日本は非欧米国として初めて欧米列強に伍して大国となった国であり、そのため自国の運営を他人の土俵とルールに合わせて展開しなければならなかったのであるから、国際社会における立身出世のため「戦争」に依拠しなければならない度合いというものは、欧米列強の比ではなかったと思う。

その結果、戦前の日本社会において「戦争」というものが占めるウェイトは、極めて大きなものになった。つまり日本の場合、各戦争が戦後も影響を与えたといった程度のレベルなのではなく、「最後は戦争に勝つ」ということでようやく完結するように国の仕組みそのものが出来上がっていたのではないか。

その意味で、僕は明治から昭和20年の敗戦にいたる80年間は、まさに「貫戦史」としての連続過程として捉えるべきであると思う。

しかし戦争をやって永久に勝ち続け利益を受ける一方の国家などというものは、人類史上存在していない。いつかはきっと負けることになる。それは人は必ず死ぬというのと同じく必然的なことなのである。

戦争を国力増強や国際社会における立身出世のための手段とし、パワーポリティックスに依拠した国家戦略の下、国家を運営していくとその結果はどうなるか。少なくとも日本の場合、答えは1回出ているのである。

僕たち日本国民が、アジア・太平洋戦争から学ぶべき歴史の教訓とは、「戦争によって得たものは戦争によって失う」ということだと思う。