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二酔人四方山問答(36)

岩木 秀樹 (2006年6月22日 3時30分)

B:イスラームは寛容性・多様性・他者性を重視することがわかったよ。

A:そのような思考様式により国際秩序観も作られた。近代西欧国際秩序では同質文化間つまりキリスト教文化間の関係が主たる体系だったのに対して、イスラーム国際秩序では異質文化間つまりイスラーム国家と非イスラーム国家間の関係が主たる体系だった。

B:へー、やはりイスラームは自分と異なるものがすでに前提にあり、異文化関係を重視していたのか。

A:イスラーム国際秩序は東西交通の大動脈を包摂する開放的な国際体系として重要な役割を果たした。

B:そうなんだ。

A:さらに非イスラーム教徒を多様に捉えてもいた。それだけ他者認識に富み、細かく分析していたということだ。

B:非イスラーム教徒をどのようにカテゴライズしていたの。

A:ハルビー、ムスタミン、ズィンミーの三つに分けていた。

B:それってどう違うの。

A:ハルビーとはイスラーム教徒と戦争状態にある者、ムスタミンとはイスラーム世界を旅行または滞在する安全通行保障権を与えられた者、ズィンミーとはイスラーム世界に住みイスラーム支配に服する啓典の民のことだ。

B:非イスラーム教徒をそのように重層的に捉えていたんだ。

A:またイスラーム世界では領域的な国家というよりも脱領域的国家思考が強かった。これは東地中海の属人法の伝統も影響している。

B:属人法ってなに。

A:ある一定の領域に統一的な法を適用するのではなく、様々な人を弁別してそれらの人集団ごとに法を適用するシステムだ。ちなみにイスラーム世界では人を類型する基準は民族ではなく宗教集団だった。

B:え、民族によって人を分けていたんじゃあないの。

A:民族意識などはなく、強いていえば言語集団意識ぐらいしかなかった。民族意識は19世紀末もしくは20世紀初頭、さらに言えば現在ですら、上から一生懸命植え付けているのが現状だ。

B:じゃあ、イスラーム帝国では宗教集団によって、適用される法が異なっていたということなの。

A:そう、ある程度はね。そのような脱領域的国家思考とともに、国家そのものにそれほどの信用をおいていないんだ。

B:え、どういうこと。

A:国家のことをダウラとかデヴレットと言うのだけれど、その語源は変転するもの、変わりゆくものと言う意味だ。つまりイスラーム教徒にとって国家や国家機構、国家の政治的指導者は変わるものだという意識がある。

B:へー、それはおもしろいね。今後の世界の行く末を見る上でも、変化の中で国家を見るということや、国家の存在を自明のものにしないということは重要だよね。

A:イスラーム教徒にとってイスラーム共同体であるウンマは重要だが、国家機構のダウラは二次的なものなんだ。

(つづく)

「中東イスラーム」研究部会のご案内

岩木 秀樹 (2006年6月17日 4時10分)

皆様いかがお過ごしでしょうか。「平和の歴史・思想・現在」研究部会と「中東イスラーム」研究部会の合同研究会を下記のように開催いたします。遠いところ ではありますが、皆さんのお越しをお待ちいたします。なお研究会終了後、簡単な懇親会も予定しています。お気軽にお越しください。去年同様、学生も参加す る予定です。なお懇親会の準備の都合上、参加希望者は岩木までお知らせいただけると助かります。

日時: 7月2日(日)午後2時から研究会 午後4時から懇親会
場所: 岩木秀樹自宅
参加費: 500円
発表者: 岩木秀樹・遠藤美純
統一テーマ: 「中東とヨーロッパから見た戦争と平和」(仮題)

*バスで来られる方
JR八王子駅 7番バス乗り場、川口小学校、上川霊園、今熊、川口経由武蔵五日市行きバスのどれか。榎木下車。360円。駅からバスで30分くら い。榎木バス停から歩いて2分。榎木バス停は丁字屋に隣接しています。そこからの行き方は以下を参照。

*車、自転車等で来られる方
秋川街道を五日市方面に進み、楢原の交差点を過ぎて約3キロ進むと、左手にスーパー丁字屋が見える。そこを右に曲がり200メートルくらい進み、T字路 を右に曲がりすぐ右側のアパート(二階がピンクの建物)の二階奥の203号室です。

二酔人四方山問答(35)

岩木 秀樹 (2006年6月15日 3時32分)

B:冷戦崩壊以後、特に9・11事件以後、イスラーム地域で戦争が絶えないよね。

A:そうだね。オスマン帝国の領域やその周辺で問題がくすぶり続けている。そのことを指して、「ポスト・オスマン・シンドローム」と名づけた研究者もいる。オスマン帝国は1922年に政治的に解体したが、その遺産の最終的な精算は出来ていない。

B:言われてみれば、紛争の多くはオスマン帝国の領域やその周辺だね。イラクもパレスチナも旧ユーゴスラビアもチェチェンもそうだ。

A:だからオスマン帝国の共存形態や、なぜそれが崩壊して現在の中東諸国体制になったのかを見ていくことは、現在の問題の淵源をたどることにもなるんだ。

B:そうか。じゃあオスマン帝国がどのようにして共存していたのかを教えて。

A:その前に、イスラームにおける共存の考えを見ておこう。オスマン帝国も、イスラームの教えやそれ以前のイスラーム帝国の影響をかなり受けている。

B:では、なぜイスラームが比較的寛容なのか教えてよ。

A:おそらく、イスラーム教徒は最も偉大な教えであるので寛容なのは当然だと考えるかもしれないが、研究者は次のように説明する人が多い。第一はイスラームは都市の宗教、商業の宗教であるから、他者の存在が前提となる。

B:商売は身内の中だけでやっていても、利潤は増大しないよね。

A:そう。だから商業的雰囲気の中で形成されたイスラームは他者性や異人を大事にする。他者がいるから自分たちも存在すると考える。だから当然、寛容となる。そして第二の理由は預言者の多元性だ。

B:なにそれ。色々な預言者も認めるってこと。

A:その通り。アダムから始まって、アブラハム、モーセ、イエスなどを預言者として認めるんだ。最大にして最後の預言者がムハンマドとなる。だからユダヤ教やキリスト教を啓典の民、兄弟の宗教として認めた。

B:なるほど。前にも聞いたことがあるね。

A:啓典の民には、税金を払ってもらえば、ある程度の自治や宗教の自由は容認した。戦争をしたり、抹殺するより、税金をもらうとは実に現実的で実利的な政策だと思う。

B:殺したりするのも労力がかかるし、恨みを買う。税を取るとはうまいやり方で、一つの共存の方法だね。

A:さらにこの啓典の民の範疇が広がることになる。ゾロアスター教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒まで広がったこともある。

B:へー、そんなに。

A:たぶん寛容思考からではなく、税を取りたかったためだろうが、それでも血で血を洗う闘いよりもましだと思う。

B:「コーランか剣か」はやはりヨーロッパで作られたイスラームに対する間違った認識なんだね。

A:そう。正確には、啓典の民には「コーランか剣か税か」だ。イスラームに改宗するか、戦うか、税金を納めるかだ。しかも先程述べたように、啓典の民の概念は広がることとなった。

(つづく)

二酔人四方山問答(34)

岩木 秀樹 (2006年6月8日 3時35分)

B:君から色々イスラームについて話を聞いてきて、寛容な宗教だということがわかったよ。

A:そうだ。キリスト教と比べれば、比較的寛容だったということは歴史家やキリスト教徒も大筋は認めている。

B:やっぱり、異教徒も平等に扱って共存していたんだよね。

A:いや、完全な平等ではなく、イスラーム教徒が優位に立っていたことは事実だ。異教徒は税が課せられたり、服装や乗り物なども規制されていた。ただヨーロッパ近代に比べて、比較的共存していたことは事実だ。そこで、最大で最後のイスラーム帝国であるオスマン帝国の体制を、専門家は「柔らかい専制」と呼んでいる。

B:ふーん。専制であるけれども柔らかいシステムを持って多宗教の共存体制をある程度維持していたということか。ところでオスマン帝国の名前を高校の世界史で習ったけれど、かなり以前にあった帝国なんでしょ。

A:いや80数年前には存在していたイスラーム帝国だ。第一次大戦によって崩壊し、その後、現在の「中東諸国体制」が西欧主導で作られた。

B:あっ、そうそう。オスマン=トルコ帝国とかトルコ帝国とか聞いたこともあるよ。

A:それは欧米経由の間違った認識が日本にも入った、いわば偏見や認識不足から来るオリエンタリズムだ。

B:どういうこと。トルコ人による帝国ではなかったの。

A:そうだ。そもそもイスラーム帝国には民族意識は希薄で、人を分かつ類型は宗教だった。当時トルコ人とは野卑な農民といったイメージだった。だからあなたは、なに人ですかと、オスマン帝国内で聞けば、おそらくイスラーム教徒ですとか、もしくは後期であればオスマン臣民ですなどと答えただろう。

B:でもスルタンや高位の政治家はトルコ人だったんでしょ。

A:いやスルタンですら混血が進みいわゆるトルコ民族ではなかった。いわんや政治家や官僚、軍人は実力登用主義をかなり長い間とっており、血縁は重視されなかった。

B:なるほどだからこそ、600年以上も帝国が維持できたんだね。

A:そう。600年以上もあれほどの広大な領土を維持するには、ある特定の集団のみが中枢にいるシステムでは無理だろう。600年持つ体制とは世界史上でもかなり少なく、当然ある一定の共存体制が前提となる。

B:トルコ人中心の帝国ではないから、トルコ帝国でもなく、オスマン=トルコ帝国でもなく、オスマン帝国と名づけるんだね。

A:そう。ただ問題はまだある。オスマン帝国とは自称ではなく、後代の人々が名づけた名称だ。

B:当時はどう言っていたの。

A:「崇高なる国家」もしくは「崇高なるオスマン国家」。しかもその綴りはトルコ語風ではなくペルシャ語風の言い方だった。帝国という言葉はなく、オスマンという初代スルタンの固有名詞もない場合が多かった。

B:へー。しかもペルシャ語風に言っていたとは。

A:トルコ語でもなく、固有名詞もない言い方はまさにこのイスラーム帝国のコスモポリタン性を示しているかもしれない。実際、イスタンブルはイスラーム教徒が過半数を占めていなかったと言われている。まさに世界が集約された帝都だった。

B:そうしたら自称としてオスマン帝国という名前ではなかったのだから、この言い方も問題があるね。

A:そう。将来、歴史家が名称を変えるかもしれない。当時の自称と他称を吟味しながら、後代の歴史家がその国家をどう歴史的に位置づけるかで変わる可能性はあると思う。

(つづく)

二酔人四方山問答(33)

岩木 秀樹 (2006年5月4日 4時32分)

B:この前、六信について聞いたけれど、五行とは何なの。

A:五つの行われるべきムスリムの義務のことで、第一はシャハーダと呼ばれる信仰告白だ。

B:もしかして、信仰告白って例の「アラーのほかに神なし、ムハンマドは神の使徒なり」なの。

A:その通り。それをアラビア語で言うことだ。第二は礼拝で、1日のうちで、夜明け、正午、午後、日没、夜半の五回礼拝することだ。また金曜の正午の礼拝は集団でやると良いとされている。

B:だからか。僕の家の近所にイスラーム教徒が良く集まる場所があるんだけれど、金曜のお昼は人がたくさんいた。でも1日五回もやるのは大変だな。

A:いや、実際のところ、全員がきちんと五回をやっているわけではない。第一の信仰告白は義務だが、それ以外は義務であることを信じていればよいとされている。

B:いいかげんだな。

A:柔軟とも言える。第三はザカートと言われる喜捨だ。

B:喜捨って何。聞き慣れない言葉だな。

A:所有される財産に対して一定の支払が課せられることで、受給対象は貧者やイスラームへの改宗者、戦士、旅行者などだ。

B:それって、広い意味での寄付行為や社会保障の一種とも言えるのかな。

A:それに近いものがあり、また結果としてそのような機能を果たしている。モスクを出た所でも気軽にザカートを与えていたり、道ばたの物乞いにもお金を与える光景はよく目にする。

B:もらった人はありがたがっているのかな。

A:それがそうでもないんだ。おまえに宗教的義務であるザカートをさせてやっているくらいの勢いだった。それにトルコなどでは大財閥の金持 ちが大きな学生寮を作ることもよくやっている。もしかしたらそれもザカートの精神が生きているからかもしれない。第四はラマダンと呼ばれる断食だ。

B:それは僕でもよく知っているよ。日中は飲まず食わずなんでしょ。

A:青年男女で健康な者はイスラーム暦第九の月ラマダンには、喫煙を含む飲食行為と性行為は、日中は断たなくてはならないとされている。イスラーム暦は一年がほぼ354日なので、ラマダンも少しずつずれてくることになり、夏のラマダンは相当きついようだ。

B:肉体労働者や兵隊は大変じゃあないかな。水一滴、厳密には唾も飲んではいけないでしょ。

A:このあたりのことは以前にも言ったけれど[(12)を参照]、ラマダンの適用においては柔軟に対応している。第五は巡礼だ。

B:メッカに行くことだね。

A:イスラーム暦第12の月の8日から10日までに定められた方法でやるのが最もよいと言われている。ただし、コーランの3章97節にも書かれているとおり、「旅する余裕がある限り」でよいとされている。

B:なるほど、五行が少しはわかったよ。

(つづく)

二酔人四方山問答(32)

岩木 秀樹 (2006年4月6日 23時30分)

B:ところで、イスラームの教義はどのようなものなの。

A:最も大事なテーゼは、「アラーのほかに神なし、ムハンマドは神の使徒なり」だ。

B:その言葉はよく聞くよね。

A:この言葉をイスラム教徒2人の前でアラビア語で唱えると、イスラーム教徒になることができるとされる。

B:それくらい重要な言葉なんだ。

A:ムハンマドによって創唱されたイスラームはアラーを唯一の神とする厳格な一神教だ。神の唯一性とムハンマドが神の使徒であることを信ずる者がイスラーム教徒と言える。

B:なるほど。

A:「アラーのほかに神なし」は、神と人間との仲介者のない垂直的な関係を規定するもので、「ムハンマドは神の使徒なり」は、ムハンマドを指導者とした共同体形成の観点から、人間同士の水平的な関係を規定するものと、イスラーム研究者の小杉さんは言っている。

B:具体的に、イスラーム教徒が信ずるべきことや行うべきことなどはあるの。

A:それは六信五行と言われるもので、六信とは信ずるべき六項目、五行とは行うべき五項目だ。具体的には六信はアラー、天使、啓典、預言者、来世、予定で、五行は信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼だ。

B:ずいぶんたくさんあるね。ひとつひとつ簡単に説明してよ。

A:アラーは唯一の神でこれは何度も説明したね。天使とは神と人間の中間的存在で様々な役割を果たす。例えば、ジブリール(ガブリエル)はムハンマドに神の啓示を伝えたりした。

B:やっぱり天使には羽が生えているの。

A:生えているのもいる。イスラームの天使もユダヤ教やキリスト教のそれとほぼ同じだ。 終末が来るとラッパを吹く天使がいたり、良い行いと悪い行いの帳簿を付ける記録係の天使もいる。

B:次の啓典はコーランのことで、預言者はムハンマドのことでしょ。

A:そう。でもこれだけにとどまらない。預言者ではムーサー(モーゼ)、ダーウード(ダビデ)、イーサー(イエス)らも入っている。また啓典にもムーサーの律法、ダーウードの詩篇、イーサーの福音書なども入っている。

B:だからユダヤ教やキリスト教はイスラームにとって、啓典の民と言われるんだね。

A:その中で、ムハンマドとコーランは最後にして最良の預言者であり、啓典と考えられている。

B:来世と予定とはどういうものなの。

A:人間の暮らす現世はいつか終わりを告げ、最後の審判が行われた後に来るのが来世だ。具体的には生前の行為によって楽園または地獄に行くことになる。予定とはこの世に起こることはすでにアラーによって決められているということ。

B:予定とは全て決められているの。

A:実はそれは今までずいぶん議論されてきたらしい。人間の自由意志を強調するイスラーム学者も存在した。

B:ふーん。五行については次回に聞くよ。

(つづく)

二酔人四方山問答(31)

岩木 秀樹 (2006年3月16日 23時39分)

B:君からムハンマドの生涯や初期の歴史を聞いて、だいぶイスラームがわかったよ。ところで素朴な疑問なんだけれど、イスラームってどんな特徴を持っているの。

A:一言で言うのはなかなか難しいよ。それに私はイスラーム教徒ではないので、イスラームを信じている人とは違った観点から見ていると思う。

B:前にもこういう話があったよね。当該宗教の信者と研究者の視点の問題だね。

A:少なくとも自分がどのようなポジショナリティで論じているのかを、自覚する必要があると思う。そうそう研究対象に対する態度について、イスラーム研究者の加藤博さんはおもしろいことを言っていた。

B:どんなこと。

A:客観的な手続で研究をするのは当然なんだけれど、研究対象に対する愛着という点では、あら探しばかりをする「坊主憎ければ、袈裟まで憎い」という態度より、対象に対して親近感を持つ「あばたもえくぼ」という姿勢で臨むようにしていると言っていた。

B:なるほどね。何らかの愛着がなければ、なかなか研究意欲も湧かないよね。

A:もちろん、冷静で時には冷徹な眼が必要とされるのは当然だけれど。その加藤さんがイスラームの特徴を述べていた。まず第一は、7世紀に生まれた新しい活力に満ちた宗教だと言うこと。

B:7世紀が新しいのかな。

A:ユダヤ教やキリスト教に比べれば、新しいだろう。またキリスト教がかなり形骸化しているのと比べて、イスラームは人々の生活と密着し、信徒数は増えている。さらに現在では良くも悪くも国際政治の焦点となっていて、イスラーム教徒同士の連帯感は強化されている。

B:そうだよね。近代化により宗教は後景に退くと考えられてきたけれど、イスラームは復興しているよね。

A:第二の特徴は、宗教と政治や生活は分離されてはならないと考えられていることだ。

B:その点は欧米の価値観とはかなり異なるので、批判されているよね。

A:第三は、第二とも関連するが、イスラームは世俗や現実に対して肯定的な宗教であるということ。多くの宗教がユートピアをあの世や伝説に求めるの対して、イスラームは歴史の一時期、つまりムハンマドが生きた初期イスラームを理想としている。

B:確かに今まで話を聞いていて、イスラームは現世や世俗に対して、時には商業や性に関してまでも非常に肯定的に捉えているよね。

A:第四は、イスラームは個人主義、契約主義、平等主義であるということ。一人一人が直接神に向かい契約するので、神との間を仲裁する教会や聖職者などの権威は理念上存在しない。それゆえ全ての信徒は神の前で平等であるということだ。

B:なるほどね。

A:第五は、教義はシンプルで、秘蹟やミラクルの少ない合理的な宗教とされていることだ。

B:三位一体ではなく、神はアラーのみであるし、後発宗教だから教義を精緻化できたのかな。

A:それもあるね。第六は第五とも関連するが、合理的な性格は汚れの観念をほとんど生み出さなかったことだ。

B:そういえば、イスラーム世界ではカーストがあるインドとは対照的で、職業には卑賤が少ないよね。

A:第七は、イスラームについて、原則においては厳格だが、適応においては柔軟であるということ。

B:前にも聞いたけれど、断食をしなくてもいい人がいたり、またできなかった場合には、断食月があけた後にやればよいなどとされている。

A:そもそも「盗みをしたら手首を切り落とす」などの厳格なイスラーム法によって統治している国は現在ではほとんどなく、現実には西欧の近代法をもとに行っている。

B:なるほど、イスラームの特徴が少しずつ解ってきたよ。

(つづく)

二酔人四方山問答(30)

岩木 秀樹 (2006年3月2日 23時40分)

B:メディナに移ってからのムハンマドはかなり変わったのかな。

A:メッカでの彼は、啓示の伝達者としての宗教的な側面が強かった。それに対して、メディナへのヒジュラ後の彼は、政治指導者、調停者、裁判官、立法者などの役割を担っていくようになった。メディナの10年間はイスラーム共同体(ウンマ)の制度化・組織化の歴史だった。

B:どのような制度化をしたの。

A:一番大きいのは、メディナ憲章を作ったことだろう。当時のアラビア半島は部族社会であり、中央集権的な国家やルールがなかったので、いったん抗争が始まるとなかなか終結させることができなかった。

B:そのような抗争を終結させる調停者として、ムハンマドはメディナに迎え入れられたんだよね。

A:そうだ。メディナでのアラブ部族やユダヤ教徒を結びつける協定がこのメディナ憲章だったんだ。これが抗争を生む部族主義の紐帯に代えて、信仰を基礎とする共同体を樹立し、宗教共存による安全保障の原理をうち立てるものであった。

B:具体的にどのような内容なの。

A:ムハンマドに司法、行政、外交の最高決定権を委ねて、対外的には団結して外敵にあたる集団安全保障がうたわれている。対内的には無差別報復の禁止、犯罪者の引き渡しと罰則の規定、信教の自由、正義の原則、財産権の保証、戦費負担の義務などが定めてある。

B:へー、かなり細かいこともあるんだね。

A:この憲章は、国家を創設する社会契約と言ってもよいだろう。メッカからの亡命者とメディナのムスリムだけでなく、非ムスリムの多神教徒やユダヤ教徒の自発的な合意の締結により、立憲連邦国家とも言うべき政体を作ったんだ。

B:こうして制度化を進めていくとともに、対外的にも広がっていくんだよね。

A:次第にアラビア半島全体を巻き込む軍事的な闘争となっていく。だからメディナ期は戦役の歴史とも言える。

B:メッカ勢力との最初の大きな戦いはいつだったの。

A:西暦624年のバドルの戦いだ。メッカ軍は600人くらいでメディナ軍より倍以上も多かったが、ムハンマドの卓越した戦略や信仰心に燃えたムスリムたちにより、メディナ軍が勝った。

B:その後、ムハンマドの威信は高まったんだろうね。

A:そう。戦利品や捕虜を得て経済力も高まり、発言権や威信を得て政治力も高まり、さらにムスリムに神の加護を確信させることになったので宗教的意義も大きかった。

B:その後もどんどん戦争をしていくんだよね。

A:625年ウフドの戦い、627年ハンダクの戦い、その後628年にはフダイビアの盟約と言われる和平もあったが、ついに630年に一万以上の軍勢を率いたムハンマドはメッカのカーバ神殿に無血入城し、全ての偶像を破壊したとされている。

B:その後イスラーム勢力はアラビア半島の覇権を確立したんだよね。

A:ムハンマドは神の使徒として様々の部族集団を宗教・政治・経済的に統轄することにより、部族間の闘争は終わり、平和の到来となった。これがパックス・イスラミカと言われるものだ。

(つづく)

二酔人四方山問答(29)

岩木 秀樹 (2006年2月23日 23時41分)

A:メディナにヒジュラしたイスラーム教徒たちは、しばらくは様々な家に居候していたが、そうもいかなくなり自らの力で衣食住や財産を確保しなければならなくなった。

B:どうやってそれらを得たの。

A:メッカの隊商を攻撃して、金品を得たんだ。

B:えっ、そんな悪いことをしたの。

A:現在の価値観では犯罪だけど、当時は違っていた。人を必要以上に殺さないとか、ある一定のルールの上で行われていた。お互いに財産の移動くらいに理解していたのかもしれない。しかもメッカの隊商を攻撃することは一石二鳥だった。

B:どういうこと。

A:一つは当然、生活の糧を確保するということ、もう一つはメッカとの対立を鮮明にするという戦略的意義もあったんだ。

B:そうか。このあたりからメッカ勢との対決姿勢をはっきりさせ始めたんだ。

A:それにこのメディナ時代にイスラームにおける様々な制度化もなされたんだ。おもしろいのはキブラの方向、つまり祈りの方向がエルサレムからメッカに変わったということだ。

B:えっ、祈りの方向は前からずっとメッカじゃなかったの。

A:それが違うんだ。ユダヤ教徒の慣習を取り入れてエルサレムに向いて祈っていた。それが西暦624年にメッカの方角に変わった。今までのエルサレムへの礼拝がユダヤ教徒との融和策としても機能していたとすれば、この時点でその役割が終わったということだろう。

B:ムハンマドを預言者とは認めないユダヤ教徒に見切りをつけたのかもしれないね。

A:そういう側面もある。それ以前は、ムハンマドは自分の説いている宗教がユダヤ教やキリスト教と同一のものと考えていたらしい。しかしここへきて、これらの宗教とは違う純粋な第三の一神教としてのイスラームを強調し始めることとなった。

B:新たな宗教の誕生だね。

A:さらに、この聖地変更によりイスラームはアラブの民族的伝統の上に基礎づけられることにもなった。

B:どういうこと。

A:イスラームは、モーゼのユダヤ教よりもイエスのキリスト教よりも遙かに古いアブラハムの純正な一神教の復活であり、一神教イスラームとアラブの民族的伝統としてのメッカの聖地性が見事に結びつくことになった。

B:なるほどね。

A:メッカをアラー信仰の中心地にし、メディナをイスラーム共同体の政治の中心にしたんだ。これからメディナにおいてイスラーム共同体建設のための様々な制度化が始まっていくことになる。

(つづく)

二酔人四方山問答(28)

岩木 秀樹 (2006年2月16日 23時42分)

B:この夜の旅と昇天の旅の後、いよいよヒジュラ(聖遷)を迎えるんだよね。

A:西暦622年にムハンマドらはメッカからヤスリブの町に移住した。

B:えっ、ヤスリブって何。メッカからメディナに移ったんじゃないの。

A:当時はまだヤスリブという名前だったんだ。ムハンマドらがそこにイスラーム共同体を作った後で、メディナという名前になった。

B:メディナってどんな意味なの。

A:町という意味だ。この町の名前は正確には「メディナ・アンナビー」つまり「預言者の町」というものだが、省略されて「メディナ(町)」 となったんだ。町という名の町、町と言えば預言者のいる所なんだ。こういうのはアラビア語に他にもある。サハラとは砂漠という意味なんだ。だからサハラ砂 漠とは「砂漠砂漠」ということになるんだけれど、あの地では砂漠と言えば、やはりサハラなんだろう。

B:でもそもそも何でメディナに移住しなければならなかったの。

A:メッカからのプッシュ要因と、メディナへのプル要因がある。プッシュ要因としては、やはり妻や伯父を失い後ろ盾を無くしたムハンマドが迫害から逃れるためであり、メッカの人々から見れば厄介者を追放することが出来たということだ。

B:でも単に逃げたということではないんでしょ。

A:そう。プル要因もかなり大きかった。当時のメディナは抗争が絶えなく、調停をする者、和平と統一をもたらす指導者が必要であった。そこでムハンマドを調停者、指導者として迎えたんだ。

B:なるほどそういう背景があったのか。

A:他の要因をさらに言えば、メディナには当時ユダヤ教徒がかなりいて、一神教的な考え方には慣れていたのでイスラームを受け入れやすかっ た。またメッカではムハンマドの権威を受け入れることは彼の属するハーシム家の覇権を認めることになりそれへの抵抗はあったが、メディナはよその土地でも あり、家の権威は関係なく、ムハンマド個人の資質や教えに純粋に共感した人々が自然に彼に従っていけた。

B:このヒジュラはイスラームにとって重要なんでしょ。

A:そうだ。最も重要と言っても過言でないだろう。メッカにおける不安定で他律的なムスリム集団がイスラームの理想に従う自立的なイスラーム共同体であるウンマを創る契機となった。

B:この西暦622年がイスラーム暦の元年だよね。

A:ムハンマドの生誕の年でもなく、最初に啓示がくだされた年でもなく、このヒジュラがイスラーム暦の起点とされたことはそれがどれほど重要であったかが解る。ユダヤ教における出エジプトやキリスト教におけるイエスの誕生にも比すべき人類史的意味を持つものなんだ。

(つづく)

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