著者別アーカイブ » 岩木 秀樹

民族主義研究の歩み ―現在における民族主義研究の動向と課題

岩木 秀樹 (2010年9月27日 1時00分)

民族主義研究(17)は、第一次大戦後、「民族自決」の原則が叫ばれるようになってから盛んになり始めた。この時期は、主にカールトン・ヘイズとハンス・コーン(18)によって担われた。この時期の研究は民族や国民の存在を自明視する傾向があり、西欧型国民国家における民族と国家の一致というフィクションを前提とするものであった。

1950年代から70年代にかけて民族主義研究に大きな影響を与えた二つの理論がある。50年代から60年代にかけての近代化論と70年代以降のエスニシティ論である。近代化論はカール・ドイッチュなどによって主張されたもので、伝統社会の特徴をエスニック集団などによる分裂と捉え、このような特徴は工業化やマスメディアの普及などによる近代化の進展と共に消滅し、統合された民族ないし国民が成立するというものであった。60年代後半になると近代化論の矛盾が明らかになった。発展途上国での統合が近代化論の予想のようには進展せず、西欧諸国における少数民族の分離運動や自決運動が活性化したことにより、ウォーカー・コナーらのエスニシティ論が台頭してきたのである。

80年代以降は、近代主義をめぐる問題で論争が行われ、現在においてもそれが継続している。近代主義とは、民族主義が、産業化、資本主義、近代国家形成、民主化、公共圏の形成等によってもたらされた「近代的」な現象であるとする立場である。それに対して、近代主義を批判する側は、近代化のインパクトは大きかったが、民族主義が近代化の作用によって、全く何もない状況から発生したわけではないと主張し、さらに人々の民族に対する感情的側面を重視したのである。(19)

近代主義者は、ゲルナー、ホブズボウム、アンダーソンらであり、非近代主義者はスミスに代表される人々である。

ゲルナーは、民族主義を文化的単位と政治的単位とを一致させようとする運動と捉えた。人を一生同じ土地や同じ職位に固定させておくのでは、生産の持続的な成長は見込めない。産業社会は高度の流動性と複雑な分業化を推し進めるため、共通の言語、共通の文化を身につけた同質的集団の形成が必須となるのである。このような不可避の同質性の必要が、民族や国民を創造したのであると説明した。(20)

ホブズボウムは、民族の形成に人工物、捏造、社会的策略の要素が作用しており、民族が国家をつくりだすのではなく、その逆であると指摘し、「伝統の創造」という概念を提示した。(21)

アンダーソンは、出版資本主義の伸長と俗語革命が国民の創造に決定的な役割を果たしたとし、国民をイメージとして心に描かれた想像の政治共同体と捉えた。彼によれば、宗教共同体や王国といった前近代的要素の解体をもとに、新しい共同体の想像を可能にしたのが、人間の言語的多様性に対する資本主義と印刷技術であった。この結果、一言語による交換とコミュニケーションの統一的な場が創造されたのである。(22)

ゲルナー、ホブズボウム、アンダーソンらは、民族や国民が創造/想像されるにいたった決定要因を近代化に見ているのである。近代以前の共同社会と近代の民族や国民との間に明確な断絶が存在すると主張する。それに対して、スミスは民族や国民の創造/想像を可能にした「素材」を近代以前にさかのぼって発見したのである。彼によれば、確かに固有の意味での民族や国民は近代に成立したのだが、その「素材」であるエスニックな共同体は古代から存在していた。共通の血統神話や文化の共有等によって特徴づけられるエスニシティが、近代化をはじめとする社会変動によって、民族や国民へと移行したのである。ただし彼は原初主義を全面的に受け入れるわけではなく、民族や国民の生成における近代化の役割も軽視していないのである。(23)

スミスの指摘は重要であり、前近代におけるエスニシティが近代における民族の基礎の一部となったことを完全に否定することは難しいであろう。しかし、視点の問題として、民族を近代特有の現象と捉えることは有効であろう。民族は恣意的に形成される場合が多く、創造/想像の産物であるがゆえに、現在様々な民族問題が噴出しているのである。


(17) 民族研究史については、佐藤成基「ナショナリズムの理論史」大沢、前掲書、木下昭「付論 ナショナリズム研究史」田口富久治『民族の政治学』法律文化社、1996年を参照した。
(18) Hayes Carlton J. H., Essays on Nationalism, The Macmillan Co., 1926, Hayes Carlton J. H., The Historical Evolution of Modern Nationalism, Richard R. Smith, Inc., 1931, Kohn, op. cit.
(19) 佐藤、前掲論文、43-45ページ。
(20) Ernest Gellner, Nations and Nationalism, Blackwell, 1983, アーネスト・ゲルナー著、加藤節監訳『民族とナショナリズム』岩波書店、2000年。木下、前掲論文、228ページ。黒宮、前掲「ナショナリズムの起源」7ページ。
(21) Eric J. Hobsbawm, Nations and Nationalism since 1780: Programme, myth, reality, 2nd ed., Cambridge University Press, 1990, E.J.ホブズボーム著、浜林正夫他訳『ナショナリズムの歴史と現在』大月書店、2001年。木下、前掲論文、231ページ。
(22) Benedict Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Verso, 1983, ベネディクト・アンダーソン著、白石隆他訳『想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』リブロポート、1987年。黒宮、前掲「ナショナリズムの起源」7ページ。木下、前掲書、229ページ。
(23) Smith, op. cit. Anthony D. Smith, The Ethnic Origins of Nations, Blackwell, 1986, アントニー・スミス著、巣山靖司他訳『ネイションとエスニシティ』名古屋大学出版会、1999年。黒宮、前掲「ナショナリズムの起源」7ページ。大沢、前掲論文、26ページ。

民族の方法論 ―現在における民族主義研究の動向と課題

岩木 秀樹 (2010年9月25日 1時00分)

民族やエスニシティを研究するに際して、幾つかのアプローチがあり、それぞれ組み合わせが存在する。まず歴史的解釈に関しては原初主義と近代主義が対となり、運動の原動力の解釈としては表出主義と道具主義が対となり、哲学的な認識論の次元では本質主義と構築主義とが対になるのである。この三組の対抗図式は親近性の観点から、原初主義=表出主義=本質主義と、近代主義=道具主義=構築主義に整理できよう。(10)

原初主義とは、民族を原初的所与と捉え、民族共同体の時間的持続性を強調するものである。近代主義とは、民族を近代化の過程において作られたものと見るものである。この点は次章の各者の論でも焦点となってくる問題である。表出主義とは、民族を象徴体系の表出的・表現的経験の問題として扱い、近代社会に生きる孤独な群衆にとって民族は名前とアイデンティティを与えてくれる存在であると捉えるものである。道具主義とは、民族を政治的手段としての利益集団として理解するものであり、政治家などが政治目的のために民族意識を利用するという観点からのアプローチである。本質主義とは、民族を本質的で生得的不変のものと捉える方法である。構築主義とは、民族を実体としては捉えず、作られるという側面を重視する考え方である。構築主義と近代主義は近似したものであるが、前者の方が射程距離が長いと言うべきであろう。

このような分類は分析概念であり、重複する部分が多く、きちんと立て分けられるものではもちろんない。また理論と運動、もしくは客観的分析と当事者の表出形態・意識が異なることも多い。民族は第三者的・研究者的には人為的構築物と捉えられる傾向があるが、当事者には原初的・本質的なものと受けとめられがちである。(11)

民族の分類法については、かなり以前から存在していた。コーンは西側先進国で発展した西欧型民族主義と東欧地域で発展した東欧型民族主義の二分類を提示した。(12)このような二分法に、さらに様々な価値が付与されるようになり、西と東、シビックとエスニック、政治と文化、リベラルと非リベラル、近代と非近代のように対比されるようになり、前者の優位性が前面に押し出されるようになったのである。(13)

近年において、このような二分法は、シビック・民族主義とエスニック・民族主義として議論されている。シビック原理とは、一定の領域において、共通の法体系のもとに、法的・政治的な権利・義務の平等性を確立し、当該地域に居住する人々を政治的市民と規定するものである。エスニック原理とは、祖先にまつわる神話や伝統、土着的な言語や文化などにより人々の紐帯を醸成するものである。(14)この二分法は、政治原理や政治的価値を共有する前者か、血統の共通性を規準にして構築される後者に仕分けされ、前者は健全な民族主義、後者は排他的な民族主義と見なされてきたのである。(15)

しかし、この二分法は明らかにイデオロギー性を内包するものであり、典型的なオリエンタリズムであろう。現実の社会では、シビックとされている西欧地域においても多くの問題を抱えており、シビックとエスニックの相克も見受けられる。また理論面においても、二項対立的な二分法の観点から民族を見るのではなく、この二つの原理がともに民族主義の核心にある根本的な二重性であり、市民性と民族性が付随しているとの見方も有効であろう。(16)

民族に限らず、理論化・分類化するにあたって、イデオロギーの機能を常に自覚する必要があろう。また単純で排他的な二項対立志向にも注意をしなくてはならないだろう。実際の民族は複合的で可変的であり、状況により大きく変化するのである。今まで民族は実体化して考察されることが多かったが、関係的なものである。さらに物事を客観的に冷徹に見る研究者の視点とともに、現に民族が係争事項になっている実践者・当事者の視点も忘れてはならないであろう。


(10) 塩川、前掲書、29ページ。
(11) 同上書、28-36ページ。吉野、前掲書、23-36ページ。
(12) Hans Kohn, The Idea of Nationalism: A Study in Its Origins and Background, Macmillan, 1944. 黒宮一太「シビック/エスニック・ナショナリズム」大沢、前掲書、318-319ページ。
(13) 原百年「ナショナリズム論-「エスニック/シビックの二分法」の再考-」『法学論集』61巻、山梨学院大学、2008年、140-141ページ。
(14) 黒宮一太『ネイションとの再会 記憶への帰属』NTT出版、2007年、94ページ。
(15) 黒宮、前掲論文、317ページ。
(16) スミス、前掲訳書、37ページ。黒宮一太「ナショナリズムの起源」施、前掲書、13ページ。

目次に戻る

民族の定義 ―現在における民族主義研究の動向と課題

岩木 秀樹 (2010年9月23日 1時00分)

民族を定義づけることは、非常に困難である。立場・視点によって大きく異なり、意味が重複し、曖昧なものとなっている。ここではとりあえずある程度の定義づけのために、民族とその周辺の用語との相違点を指摘する。

まず人種と民族の相違であるが、梶田によれば、人種とは、主に肉体的・生物学的属性に注目した分類基準で、大きくは白人や黒人とその他の有色人に分類されるが、科学的には多様な分類が考えられる。これに対して、人間集団を言語、生活様式(服装、髪形、食事、家族構成など)を基準として分類すると、それらはエスニック集団あるいは民族とみなされる。(5)

次に民族とエスニシティの相違を考えてみる。エスニシティとは、大別して二つの用法がある。第一に、少数民族あるいは移民・移住集団を意味する。第二に、近代的民族の成立以前に存在する何らかの共同体、もしくは近代的民族の原型を意味する。(6)このようなエスニシティ概念は、何らかの共通性を基盤にした文化的概念であるのに対して、民族は政治的自決を志向する政治的概念である。また国民とはある国家の正統な構成員の総体と定義できよう。(7)

エスニシティについてもう少し考察すると、第一の用法はアメリカでよく用いられ、第二の用法はスミスらの議論につながるものである。第二の用法は次章で考察するが、第一の用法についてここでは簡単に述べておく。

エスニシティは、公民権、学生、ウーマンリブ運動の影響を受けて、1970年代のアメリカで最初に使用されるようになった。従来はマイノリティ研究に使われていたが、最近は幅広く使われるようになってきており、移民・難民・外国人労働者などを指すことも多くなってきた。訳語は定着しておらず、エスニシティとして使用される例が多いのである。

スミスによれば、エスニシティの構成要素として次の六つが挙げられる。集団に固有の名前の存在、集団に独自の文化的特徴の共有、共通の祖先に関する神話、歴史的記憶の共有、固有の「ホームランド」との関係あるいは心理的結びつき、集団を構成する多数の連帯感の存在である。(8)

日本語の民族は、英語のネーションやエスニシティの両者を包含した概念であるが、近代において政治志向を有した集団として使用されることを前提とすると、ネーションとの親近性が高い。エスニシティを一つの基盤として民族が近代において創造され、政治化したのであろう。

しかしエスニシティと民族の差は政治的覚醒の程度の差であるので、境界線は曖昧であり、民族という日本語はこうした現実世界の曖昧さに対応しているので、かえって概念としての有効性が認められるのかもしれない。(9)

本稿において民族のとりあえずの定義として、次のようにしておく。民族とは、前近代のエスニシティをある一定の基盤として、言語・文化・生活様式などが共通であると認識された、近代において創造/想像された政治志向を有した集団とする。


(5) 梶田孝道『国際社会学』日本放送出版協会、1995年、68ページ。
(6) 吉野耕作『文化ナショナリズムの社会学 現代日本のアイデンティティの行方』名古屋大学出版会、1997年、20ページ。
(7) 塩川伸明『民族とネーション -ナショナリズムという難問』岩波書店、2008年、6-ページ。施光恒他編『ナショナリズムの政治学 規範理論への誘い』ナカニシヤ出版、2009年、ⅳページ。
(8) Anthony D. Smith, National Identity, Penguin Books, 1991, p. 21、アンソニー・スミス著、高柳先男訳『ナショナリズムの生命力』晶文社、1998年。吉野、前掲書、20-21ページ。
(9) 同上書、23ページ。

目次に戻る

なぜいま民族なのか ―現在における民族主義研究の動向と課題

岩木 秀樹 (2010年9月21日 1時00分)

なぜ今、民族が注目されているのだろうか。従来、社会が近代化すると価値志向が属性主義、特殊主義、地域主義、部族主義、伝統主義から機能主義、業績主義、合理主義、普遍主義へと変化するので、人種・エスニシティ(エスニック集団)・民族などへのこだわりはなくなると言われていた。(3)しかし、なぜいま民族が注目され、様々の「民族問題」が噴出してきているのか。その要因は色々あるが、以下のようなことが考えられよう。

そもそも上のような問題の立て方がおかしいとも考えられよう。業績主義的努力が属性化する結果も見られる。もしくは一見業績主義と見られていたものが実は属性主義によって決定されていたということがある。学力が親の収入と相関関係があるということはそのよい例であろう。近代化、産業化によって属性主義から業績主義へと単線的に移行するわけではないのである。また「民族対立」が属性的なものをめぐる対立であるとともに、経済格差や業績発揮の機会をめぐる業績的対立でもあるのである。

他の民族台頭要因として、国民国家を建設するため、一民族、一言語、一文化を過度に重視し、異文化者の同化が前提にあったので、それへの反発が出ているとも考えられよう。姜によれば、資本主義世界経済の発展と矛盾が生み出す「反システム運動」であり、普遍主義的な文化的同化の強制に対する「痛切な叫び」である。(4)また国民国家を相対化する動きも多く見られている。例えば移民、難民、留学、海外勤務などは既存の枠組みを超える動きであろう。

民族台頭要因として、社会主義陣営の崩壊後の新しい統合原理として民族が利用されているということもあろう。冷戦崩壊後に、いわゆる「民族紛争」が生じている。今まで抑圧・隠蔽されてきたものが噴出しているとも考えられよう。

このように様々の要因によって、現在、民族が台頭し、それに対する議論が盛んになっているのである。


(3) 梶田孝道編『国際社会学-国家を超える現象をどうとらえるか-』第2版、名古屋大学出版会、1996年、30-31ページ。
(4) 姜尚中「世界システムのなかの民族とエスニシティ」『グローバル・ネットワーク 岩波講座社会科学の方法』11巻、1994年、188ページ。

目次に戻る

現在における民族主義研究の動向と課題

岩木 秀樹 (2010年9月19日 1時00分)

特定非営利活動法人 地球宇宙平和研究所
ユニバーサル・ユニバーシティ・インターネット

現在における民族主義研究の動向と課題

岩木 秀樹

はじめに

冷戦崩壊以後、いわゆる「民族問題」が噴出している。「民族問題」や「民族紛争」を低減化するためにも、民族とは何か、なぜ民族なのか、民族の歴史的発生要因や社会的機能などが問われなくてはならないだろう。

民族は近代のどのようなイデオロギーよりも比較的大きな政治的影響力をもっていた。しかし哲学的には貧困でリベラリズムやマルクシズム、フェミニズム等の他のイデオロギーと違って、偉大な思想家も生み出さなかったと言われている。このことは資本主義も同様であり、偉大な思想家を生み出さなかったけれども、社会的には大きな影響力をもったのであった。(1)また民族ほど、日常の実生活を直接に政治と結びつけるイデオロギーは存在しない。民族を支えるのは、抽象的な世界観ではなく、日常生活にまつわる言語や文化などの「伝統」の共有である。近代における自由主義や社会主義などを内面化するには相当の時間や教育が必要であるが、民族への共感や一体感は子どもにも可能であると言われている。(2)

このように大きな影響力をもち、しばしばエモーショナルに訴え、戦争の原因とも受け止められている民族を考察することは重要であろう。ここでは最近の日本における民族に関する議論を中心に、民族主義研究の動向と課題を概略的に論じるものである。

本稿ではまず最初に、民族が注目されている要因を述べた後、民族と他の概念との相違を見た上で、大まかな定義付けをしていく。次に民族研究における方法論を、原初主義=表出主義=本質主義と近代主義=道具主義=構築主義に立て分けて説明する。さらに第一次大戦後からの民族主義研究史を瞥見し、民族の発生を近代にみる近代主義者と非近代主義者の論を検討する。最後に、アイデンティティ論の観点で民族を見た上で、民族を超えるような視座の可能性を示唆する。

目次

  • 1. なぜいま民族なのか
  • 2. 民族の定義
  • 3. 民族の方法論
  • 4. 民族主義研究の歩み
  • 5. アイデンティティ論
  • 6. 民族を越えて
  • おわりに


(1) 大沢真幸「ナショナリズムという謎」大沢真幸他編『ナショナリズム論・入門』有斐閣、2009年、25ページ。
(2) 藤原帰一『新版 平和のリアリズム』岩波書店、2010年、90ページ。

GA(グローバル・アカデミー)のお知らせ

岩木 秀樹 (2010年2月13日 0時56分)

2009 年度の GA (グローバル・アカデミー) では、多数の皆さんにご参加いただき、充実した論議ができました。またお忙しい中、講義を引き受けていただきた講師の皆様には感謝いたします。2009 年度の GA (グローバル・アカデミー) は以下の通り行いました。 (敬称略)

第 1 回 2009 年 6 月 14 日 (日)
統一テーマ「ヨーロッパとアジアのアイデンティティと現在」
吉野良子 (創価大学助教) 「ヨーロッパ統合の過去・現在・未来」
岩木秀樹 (地球宇宙平和研究所理事) 「中東の 20 世紀ー文明の十字路トルコー」

第 2 回 2009 年 7 月 19 日 (日)
片山博文 (桜美林大学准教授) 「フレデリック・ソディのエコロジー経済学」
林亮 (創価大学教授) 「国際関係論は西欧近代を如何に超克するか」

第 3 回 2009 年 9 月 20 日 (日)
遠藤美純 (地球宇宙平和研究所理事) 「近代世界システムにおけるヨーロッパの台頭」
王元 (地球宇宙平和研究所理事) 「中国の周期的社会動乱の再考:古典周期の終焉について」

第 4 回 2009 年 10 月 18 日 (日)
汪鴻祥 (創価大学教授) 「現代中国外交の再考 -その変化、特徴、課題などについて-」
徳永雅博 (江東区議会議員) 「民主党政権の誕生の背景と今後について」

第 5 回 2009 年 11 月 15 日 (日)
岡田邦生 (ロシア NIS 経済研究所) 「日ロ経済関係の現状と展望」
木村英亮 (横浜国立大学名誉教授) 「ソ連経済における市場経済  中国の体制をどう見るか」

2010 年度も充実した GA (グローバル・アカデミー) を開催いたしたいと思っています。現時点では、2010 年 7 月、10 月、12 月の第二日曜日の午後の時間帯で、青葉区区民活動支援センターで行う予定です。講師を希望される方、お聞きしたい講師がいらっしゃる方、ぜひ岩木までお連絡ください。

第5回グローバル・アカデミー報告

岩木 秀樹 (2009年11月16日 11時12分)

2009 年 11 月 15 日 (日) 13:30 から 17:00 まで、横浜市青葉区区民活動支援センター会議室 2 ・ 3 で、第 5 回「グローバル・アカデミー  GA (地球大学院)」を行いました。 11 名が参加され、有意義な議論をすることが出来ました。

1 コマ目 (13:30-15:05) には岡田邦生さん (ロシア NIS 経済研究所) が「日ロ経済関係の現状と展望」を、 2 コマ目 (15:15-17:00) には木村英亮さん (横浜国立大学名誉教授) が「ソ連経済における市場経済  中国の体制をどう見るか」を発表しました。地球宇宙平和研究所では来年度にロシア訪問を予定しており、タイムリーかつ 2 人の違った視点の発表によりロシアを見ることができ、興味深いものとなりました。

岡田さんの発表では、細かな数字や図表を用い、ロシアの現状と今後がわかりやすくパワーポイントを使用して報告されました。ロシア経済における総輸出額の 65% をエネルギーが占めており、近年まで原油高を背景に高い成長率を誇っていました。リーマン・ショック以後は、他の資本主義諸国と同様に経済的停滞を経験したが、依然として産出量も埋蔵量も豊富な資源大国であることに変わりはない。日本からロシアへの輸出は自動車が急激に増えており、日本への輸入は石油が増大している。今後、サハリンや北東アジア地域のパイプライン設置により、さらなる日ロ関係の緊密化が望まれる。

木村さんの発表では、これまでのソ連史研究に触れながら、市場経済という観点からソ連の社会主義を再考し、弱肉強食の新自由主義へのオルタナティブを提供するものでした。ソ連史においても市場経済はすでに試みられており、最初はネップによるもの、第二は利潤導入などのコスイギン改革、第三はゴルバチョフ改革であった。ソ連邦の崩壊は一国社会主義の破綻であり、本来社会主義とは国際的なものであり、またそれが経済状況にも適していることは様々に議論されてきた。ソ連の社会主義を当時の国際的・国内的状況を踏まえて理解することが大事であり、社会主義経済 70 年の経験を今後も貴重な財産とすべきであろう。

お二人の発表は、かたやロシアのあるべき資本主義の大きな可能性を示すもの、かたや社会主義経済の有効性とその遺産の正当な継承を訴えるものであり、一見水と油と考えられがちである。しかしいずれも、現在の金が金を生む行き過ぎた新自由主義経済を乗り越える第三の道を志向しているように思われた。質問や意見もそのそうなものが中心だった。人々の自由な意志や労働を保証しながら、生産力を高めつつ、環境にも配慮し、公正で公平な社会のための福祉・教育・医療等のセイフティーネットを強くしていく社会が望まれるだろう。またそれらは時代的・社会的条件の中で行われることも心に留めなければならない。

今年度から始まったグローバル・アカデミーも無事 5 回終了することができました。お忙しい中報告を引き受けていただいた講師の皆さん、また議論に加わっていただいた参加者の皆さん、大変有り難うございました。来年度へ向けて、ぜひ様々なご意見をお寄せください。個人的には、もっと議論の時間をとる、テーマを決めて行う、身近な地域で複数のグローバル・アカデミーを行うなどを考えております。今後とも何卒よろしくお願いいたします。

第4回グローバル・アカデミー報告

岩木 秀樹 (2009年10月20日 13時48分)

2009 年 10 月 18 日 (日) 13:30 から 16:40 まで、横浜市青葉区区民活動支援センター会議室 2・3 で、第 4 回「グローバル・アカデミー GA (地球大学院) 」を行いました。会員でない方が 4 名も参加され、合計 14 名の方々によって、有意義な議論をすることが出来ました。

1 コマ目 (13:30-15:00) には汪鴻祥 (創価大学教授) さんが「現代中国外交の再考 ―その変化、特徴、課題などについて―」を、 2 コマ目 (15:10-16: 40) には徳永雅博 (江東区議会議員) さんが「民主党政権の誕生の背景と今後について」を発表しました。いずれのテーマも、中華人民共和国建国 60 周年と日本における政権交代という非常にタイムリーかつ興味深いテーマでした。

汪さんの発表では、まず建国以来 60 年間の外交の変化が論じられ、半植民地国家から独立自主国家へ、革命の外交から平和の外交等への変遷が概観された。さらに最近の中国がグローバル化の受益者、国際秩序の建設者になったことも指摘された。その後、中国外交の特徴として、目標・周期・理念・風格・形態・構図に分けて分析され、最後に今後の課題として、「調和世界」の構築や周辺・国境問題の処理、さらに国際貢献の向上などの重要性を指摘された。非常にわかりやすい報告で中国外交 60 年を総括的に概観でき、今後の中国の行く末をより見通すことができたと思います。

徳永さんの発表では、まず 2009 年 8 月 30 日の衆議院選挙結果の特徴として、政権交代の実現、自由な言論環境の誕生、官僚中心からの脱却、閣僚への労働者の代表の就任を挙げ、また政権交代の背景として、新自由主義への怒りと二大政党制への期待があると指摘された。さらに政権交代の社会的経済的背景として、所得の低下、労働環境の悪化、自殺者の増大、利益誘導型政治の限界等を考察された。民主党が目指すものは、政治主導の地域主権国家であり、従来の 55 年体制によるイデオロギー論争から生活者の視点へのパラダイムシフトであると述べられた。細かい数字に裏付けられた説得的な発表であり、今後の日本の将来を指し示すものであったと思います。

第3回グローバル・アカデミー報告

岩木 秀樹 (2009年9月21日 1時59分)

2009 年 9 月 20 日 (日) 13:30 から 16:40 まで、横浜市青葉区区民活動支援センター会議室 1 で、第 3 回「グローバル・アカデミー GA (地球大学院) 」を行いました。 10 名の方が参加され、様々な議論をすることが出来ました。

1 コマ目 (13:40−15:00) には遠藤美純 (地球宇宙平和研究所理事) さんが「近代世界システムにおけるヨーロッパの台頭」を、2 コマ目 (15:10−16: 40) には王元 (地球宇宙平和研究所理事) さんが「中国の周期的社会動乱の再考:古典周期の終焉について」を発表した。

遠藤さんの発表では、ヨーロッパの発展において、ヨーロッパは特殊であるとの近代化論とヨーロッパを相対化する従属論に分けて、様々の研究者の論点をわかりやすくまとめ、1800 年が大きな画期であり、その時点で世界が一つになり、近代世界システムが構築されたことを考察した。その際、交通・通信などの科学技術とグローバリゼーションとの関係が非常に重要となることを指摘した。討論では、1492 年のコロンブスのアメリカ大陸到達や 1800 年頃の技術革新は大きな変革をもたらしたこと、世界システム論では戦争の問題が捨象されていること、米国をどう位置づけるか、ヨーロッパの台頭要因などが議論された。

王さんの発表では、1911 年からの現代中国における社会動乱の周期を 8 年から 1 2 年として、現代中国の事件を説明し、動乱の担い手として知識人や大学生に着目し、社会的圧力の高まりが一定の周期性にしたがって爆発することを考察した。その論拠として、様々の研究者や現代史の重大事件、また経済学や社会学の分析方法も用い、さらに自然災害や 5 年おきに開催される党大会まで視野を広げて説明された。現在、中国社会の成熟や経済発展、大学生の大衆化やノンポリ化などにより、この周期も最近は変容しつつあることが論じられた。討論では、大学生の進学率が相当高くなったことによる大学生の変化、動乱には外国からの武力侵攻も含めるのかといった動乱の定義の問題、時期区分の問題と「古典周期」という用語の妥当性、8 年から 12 年サイクルの論拠としての大学生活 4 年間についてなどが論議された。

いつも思うのであるが、発表をし議論をすることの重要性を感じる。ややもすれば自分の頭のなかで完結していると思えることが、他者の意見によりそれが崩され、大いに参考になることがある。まさにグローバル・アカデミーもそのような機会のひとつであろう。最近あるところで読んだものに、「本当の教養ある人とは、問答無用を否定する人である」というのがあった。対話や議論なきところに、文化や思想はないであろう。これからも大いに、権力関係や利害関係がない空間で言いたいことを言い合いたいと思う。今後とも、そんなグローバル・アカデミーにしていきたいと思っている。

第2回グローバル・アカデミー報告

岩木 秀樹 (2009年7月20日 18時54分)

2009 年 7 月 19 日 (日) 13:40 から 16:40 まで、横浜市青葉区区民活動支援センター会議室 4 で、第 2 回「グローバル・アカデミー  GA (地球大学院) 」を行いました。 8 名の方が参加され、白熱した議論をすることが出来ました。

1 コマ目 (13:40-15:00) には片山博文 (桜美林大学准教授) さんが「フレデリック・ソディのエコロジー経済学」を、 2 コマ目 (15:10-16:40) には林亮 (創価大学教授) さんが「国際関係論は西欧近代を如何に超克するか」を発表しました。

片山さんの発表では、環境・エネルギー・金融危機の原因が現在の貨幣制度にあるとしたソディーに着目し、経済におけるエネルギー問題とエントロピー問題の重要性を指摘しました。市場や貨幣中心の経済ではなく、貨幣の肥大化を防ぎ、貨幣と商品を等価なものと考え、共同体が所有していない仮想的な富を制限する新しい経済学の可能性を考察しました。

経済学に疎い私は片山さんの発表に学ぶことが多く、現在の弱肉強食の経済体制を根源から見直す機会になりました。特に次のような議論が非常に示唆に富んでいました。永続的成長が続くことを前提とした市場経済はエントロピー法則を無視している。すべての生命活動の基盤は太陽であり、その恩恵を直接受けている植物こそが真の資本家である。物々交換から金属貨幣、紙幣へ、さらにバーチャルな信用経済へと進む現在であるが、実体的裏付けがないから暴走する可能性が増える。エントロピーは極大化する方向であるが、生命のみが低エントロピーを維持しているということは、生命に何かが隠されているからである。これらの議論は非常に新鮮で、今後の新しい経済のあり方を根本から問題提起するものでした。

林さんの発表では、西欧近代が生んだ現在の諸矛盾を解決すべく、西欧近代の思考様式を紹介し、西欧の脱中心化を図るとともに、パラダイム転換の必要性を考察しました。サイード、ウォーラステイン、リヴァシーズ、フランクなど広範な論者を批判的に摂取しながら、支配的でも強制的でもない知のあり方を模索し、西欧中心の国際関係論から地球国際関係論へパラダイムシフトすべきであるとしました。

林さんの発表後の議論は非常に白熱し、西欧近代における侵略や植民地化などの「負」の歴史と、西欧近代がもたらした「普遍的な」人権や民主概念との対立関係で論議は盛り上がりました。「負」と「正」、「特殊」と「普遍」のどちらかであるといった二項対立ではないし、一方的にどちらかを否定は出来ないですが、どちらを重視するかで議論となりました。人権、民主、平和概念は現在ほぼ「普遍」概念として日常的には使用されているが、そのイデオロギー性を暴露することも重要であろう。しかし、ある一定の普遍性があることにも留意が必要であろう。たらいの水と一緒に赤子まで流してしまっては、今までの先人たちの努力が水の泡となってしまう恐れもある。いずれにしても今後の精緻な研究が待たれよう。

自由に議論し、その後ビールを片手にさらに深めていく、このような知的サロンこそが今、求められているのではないだろうか。家庭、会社、大学、様々な組織でも、このように忌憚なく自由にしゃべれる場はそれほど多いとは思えない。今後も自由に白熱した議論をするグローバル・アカデミー GA (地球大学院) にしていきたい。

全 8 ページ: « 1 [2] 3 4 5 » ... 最後 »