タイとカンボジアの国境で何が起きているのか?:タイ側被災地を訪ねて

高橋 勝幸

私は涙を流しつつ叫びたい。この涙は怒りに満ち、現世と来世に渡るまで恨みを果たそうとする男児の血の涙だ。
愛すべきタイ人兄弟よ。いつの日か、我々はプラウィハーン遺跡をタイ国の所領にきっと取り戻さなければならない。

これは、国際司法裁判所がプラウィハーン遺跡(カンボジア名はプレアビヒア)のカンボジア帰属の判決を下した後の1962年7月4日、サリット首相[1]の声明の一部である。この文句が黄シャツ[2]のテレビ局「ASTV」で度々読み上げられる。カンボジアに対して失地回復を求めて、今も続くバンコクでの黄シャツの集会でも読み上げられている。

僕は今、東北タイにあるウボンラーチャターニー大学で日本語や歴史を教えている。ウボンラーチャターニー県(以下、ウボン)は東はラオス、南はカンボジアの国境に接している。ラオスとの国境の一部はメコン河だが、残りは陸続きだ。2011年2月4日、軍事衝突が起こったプラウィハーン遺跡周辺[3]は、タイ側はシーサケート県である。ウボン県の西隣の県だ。紛争地はウボン大学から車で1時間半ほどで、ほぼ南に直線距離で約100kmに位置する。

僕は2011年2月12日、参与観察を続けている赤シャツの友人と被災者のお見舞いに行った。午前中、まず避難所のガンタララック郡役所を訪れた。役所の外周に巡らした柵の垂れ幕が目に飛び込んだ。平和を渇望し、戦争を憎悪するものや、カンボジアに対する敵対感情を煽る黄シャツを非難する内容だ。役所には炊き出し、就寝用テント、見舞い品、被災者登録、軍人、ボランティア、メディア関係者が見られた。国境近くの住民は役所に集団避難していたが、軍事衝突が落ち着き、午前中にはほとんどが家財と見舞い品を持って帰宅していた。

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平和を求める垂れ幕 被災者登録
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帰宅する避難者 義捐物資

午後、ガンタララック郡サオトンチャイ区プームサロン村の被災者の自宅を伺った。両隣の2件が被弾して全焼していた。長さ70cm、直径20cmの砲弾だったという。そして向かいの家に行った。直径5mの爆弾跡が畑にあって、驚いた。さらに驚いたことは、この家の主であるチャローン・パーホームさん(59)は2月4日夕方(15時から17時半の間)に被弾して即死したというのだ。タピオカ、カシューナッツ、ココヤシ、ゴムなどの換金作物を栽培していた彼は爆音を聞いて、枯れた灌漑水路に避難したが、砲弾が水路に落ちてそれに沿って進んできて被弾した。僕はその話を未亡人から聞いた。彼女はカンボジアを憎悪することなく、タイ側の黄シャツが戦争を扇動したと批判した。

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全焼した家屋 被弾の跡
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被弾の跡を囲んでみる 夫が被弾した地点を示す女性

次に被爆したプームサロンウィタヤー中学校を訪ねた。僕にとって半年振りの訪問である。前回は、民間レベルのタイ・カンボジア友好促進のために、両国のNGOがシエムリアップとシーサケートを相互訪問し交流した時に拠点として利用した。交流地となった校舎の屋根が被弾していたのはショックであった。校内の至る所に防空壕がある。初めて見た時は遊具かと思った。その時、食堂で働く女性に聞いたら、防空壕を使ったことはないが、そのような事態が起こったら怖いと言っていた。今回、食堂の隣の仮校舎も砲撃を受けていた。

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被爆したプームサロンウィタヤー中学校
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砲弾 被弾した仮校舎

4人の聞き取りを整理すると次のようである。

  • 女性① (避難所で)  戦争を欲しない。普通の生活を取り戻したい。家を空けて、避難所生活をするのはいやだ。家財など大事なものを家に残したままだからだ。
  • 女性② (被爆して父を亡くした娘)政府から小額(7万5千バーツ)の補償金をもらっても、嬉しくない。戦争を扇動した人たちは失われた命や財産に対して責任を持つべきだ。
  • 女性③ 村人は黄シャツを歓迎しない。黄シャツは諸悪の根源だ。多くの村人は赤シャツだ。
  • 男性① プラウィハーンはタイに帰属しないが、黄シャツが領有を要求するまでは何も問題は無かった。

僕は見舞いを終えて、同僚に今回の事件について意見を聞いた。彼女はスリン県出身(シーサケート県の西隣)でクメール語を話す英語教員だ。

「プラウィハーンという一つの遺跡を巡って、長い間争いをし、もううんざりしている。指導者の問題だ。一番被害を被っているのは国境周辺に住む住民だ。バンコクで戦争によって問題を解決しようとしている一部の人々、つまり、黄色いシャツの人たちが悪い。黄シャツは主権だ、領土だと騒いでいるが、地元住民の生活や気持ちが理解できない。地元の住民は生活が大切だ。領土や国境にそれほど関心はない。両国の軍事衝突によって、どれだけ生活を脅かされ、苦渋を強いられているか。生活してみるがいい。しかし、黄シャツが現地に行けば、袋叩きにされるだろう。」

僕が今回の訪問で気づいたことは2点ある。一つは、被災者の批判の矛先がカンボジアよりもタイに向いていることである。黄シャツがカンボジアを挑発するような行動、言論を繰り返すことが批判されている。もう一つは、「防空壕」の存在である。現在、シーサケート県内には297の防空壕があるが、新たに451の防空壕を作るそうだ。土管に土嚢を重ね藁をかぶせたようなものだ。何でも1979年にポル・ポト派がベトナム軍に追われて、国境沿いに拠点を築いて以降、防空壕が作られたそうだ。防空壕が無くても平和に暮らせる日が一刻も早く訪れることを願って止まない。

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防空壕 プラウィハーン遺跡観光のためのタイからカンボジアへの出国許可証

この悲劇は、アンコール王朝の文化遺産が国境に近い絶壁の上に位置することにある。フランス植民地との国境画定が問題を更に複雑にしている。サリットに同行したタイ研究の碩学の石井米雄氏も、プラウィハーン寺院はそのアクセスからタイに帰属すると実感したという。この話を紹介してくれた桜井由躬雄氏は「プラウィハーンはタイのものでも、カンボジアのものでもなく、人類の文化遺産であるから、国連組織が管理すべきである」と話していた[4]。僕は、両国による共同管理によって、プラウィハーン遺跡が平和・友好のモデルとなることを期待している。


1.1959-63年に首相を務めた。独裁者として知られる。
2.反タクシン派で、バンコクの高官や既成財界などの既成支配層に強力なコネをもつ民主市民同盟。赤シャツに対抗。
3.事件の背景は拙稿「タイ・カンボジア関係:プレアビヒア寺院をめぐるウボン大学学生の反応」『タイ国情報』2010年3月号、26-42頁を参照。
4.2011年2月7日、ウボン大学にて。