おわりに ―現在における民族主義研究の動向と課題

岩木 秀樹

近代において、民族は大きな影響力をもっていた。人をまとめ、奮い立たせ、時には憎悪を駆り立てた。冷戦崩壊以後は、さらにその傾向が強くなっているかもしれない。その意味において、民族を今一度考察することは非常に重要であろう。

民族の定義は難しいが、周辺の用語との差異によってわずかながらも意味が浮き彫りになろう。エスニシティは何らかの共通性を基盤にした通歴史的な文化的概念であるが、民族は近代に顕著になった政治的自決を志向する政治的概念である。

民族の研究方法も多岐に及ぶが、大きく分けて、原初主義=表出主義=本質主義と近代主義=道具主義=構築主義に分けられよう。さらに最近はシビック・民族主義とエスニック・民族主義に立て分けられて論じられている。前者を健全な、後者を排他的な民族主義と説明することは、あきらかにイデオロギー性を帯びた議論であろう。

今までの民族主義を巡る論争は、近代的な現象であるかということが中心であった。近代主義者は、ゲルナー、ホブズボウム、アンダーソンらであり、非近代主義者はスミスに代表される人々である。ゲルナーは、民族主義を文化的単位と政治的単位を一致させようとする運動と捉えた。ホブズボウムは国家が民族を作り出し、「伝統の創造」を行うとした。アンダーソンは、出版資本主義や俗語革命が大きな役割を果たし、想像の政治共同体を構築したと説いた。それに対して、スミスは民族は近代に成立したのであるが、民族のもとになったエスニシティはさらにそれ以前より存在していたことを主張したのである。このように近代主義者と非近代主義者は完全に背反的な立場ではないのであり、よりどちらを重要視するかという程度の問題であろう。筆者もスミスの指摘は重要であると考えているが、視点として民族を近代特有の現象と捉えているのである。創造/想像の産物であるがゆえに、現在様々なゆがみが生じていると考えているからである。

最近、民族などをアイデンティティの観点から論じることも多くなってきた。このことは重要であるが、アイデンティティ自身が所与のものとして自律して存在するのではなく、
歴史的、社会的に構築されたものとして捉える必要があろう。

かつて江口朴郎は、戦後の早い段階で民族に着目して以下のように述べた。すべて物事に一つの実体的な定義をあたえることは、現実に発展しつつあるものを性急に抽象化する危険を伴うものであるが、特に「民族」の問題は、あらゆる意味で、すぐれて歴史に関係するものであるから、そのように固定した観念から出発することをむしろ避けるべきであろう。(32)実体化・抽象化・固定化への警鐘は重要な視点であろう。最近ではそのような視点は多くの論者が指摘しているが、民族革命や民族独立が華やかな1957年の段階でのこの主張は慧眼であろう。

民族は近代において、歴史的文脈の中で創造/想像されたのである。さらに自己も民族も他律的存在、関係的存在であろう。そうであれば民族をはじめとする物事を固定的・非歴史的に捉えるのではなく、動態的・可変的に捉える関係主義的思考様式が今後望まれるであろう。


(32) 江口朴郎「現代における民族および民族主義」『岩波講座現代思想 民族の思想』3巻、岩波書店、1957年、3ページ。