民族を越えて ―現在における民族主義研究の動向と課題

岩木 秀樹

現在、グローバル化が強調されるあまり反動として、過去の歴史的構成物としての国民国家の一体性が必要以上に誇張される傾向がある。過度に均質で一体的な国民国家概念がそのまま受容されているのである。(28)

例えば、日本概念も「縄文時代の日本」や「日本の古代」のように、あたかも歴史的に非常に古い時代から均質で一体的な「日本」なるものがあったかのように説明されている。しかし近代以前の日本には、漠然とした文化的独自性に基づくエスニック・アイデンティティは存在したが、階層的・地域的に限定されていた。日本人としてのアイデンティティが日本列島に住む大部分の人々に広まるのは明治中期以降なのである。政府の側も「伝統の創造」に努め、1889年の憲法制定を前に、それまで不明確だった13の天皇陵墓が一挙に「確定」された。大日本帝国憲法第一条で「万世一系の天皇これを統治す」と規定した以上、天照大神の子孫である天皇家が一貫してこの国を統治してきた「物的証拠」を示さねばならなかったのである。(29)

このように民族や国民は、近代において創造/想像された側面が強いのであり、人を分かつ基準は、かなり恣意的なのである。人類はどの人間集団の間でも、交配可能だから、人類はただ一つの種を構成している。だが様々な身体的特徴から幾つかを抜き出して分類し、人種概念等を作ってきた。ある形質を軽視し、他の形質を重要視する合理的な理由などないのである。例えば血液型にはABO式、Rh式、Kell式などがあるが、日本においては血液型といえばABO式である。そのABO式で人間を分類しようと提唱する学者は存在しないのである。つまり血液型で分類しても、肌の色や鼻や頭の形で人間を分類してもいいのであるが、恣意的にある特定の形質で分けているにすぎないのである。しかもその恣意性はかなり政治イデオロギーを有しており、ある時点の強者に都合の良いように分類されることが多いのである。「黒色人種」「白色人種」「黄色人種」という分類は、当時の西洋植民地主義に適合的であった。当時の学者が皮膚の色や髪の形状に注目し、身長・眼色・髪色などの形質を無視したのは、ヨーロッパ人が他地域の人々を征服し、発展しつつある植民地帝国に非ヨーロッパ人を二流市民として統合していく過程において、ヨーロッパ人とそれ以外とを区別する手段として身長・眼色・髪色などの形質が不適当だったからにすぎないのである。(30)

このように人種や民族などの同一性を支える根拠は、恣意的かつ非合理な場合が多く、当該集団の内在的特質ではなく、差異を生み出すイデオロギーや運動・政策に求めなければならない。時間を超えて保たれる自己同一性は、不断の同一化を通して人間が作り出す虚構の物語であり、共同体自体に同一性の根拠が内在するのではない。

また人間や共同体は常に変化している。変化をすること自体が問題なのではなく、強制的に変化させられる、あるいは逆に、変化したい方向に変化できないという事態が問題なのである。民族などの少数派は多数派により強制させられたり、吸収されたりすることがある。しかし少数派から多数派への様々な影響は、異なった意見の間の格闘から新たな価値が生み出される創造過程ともなるのである。多数派あるいは少数派の考えが踏襲されるだけなら、社会全体にとって新しい価値は生まれようはない。異なった既存の考えのぶつかり合いから新しい考えが生み出されるのである。(31)

他者や他集団が存在するから、自分や自集団が存続するのである。極端な本質主義、過度な実体化、非歴史的志向を今一度問いなおす必要があろう。世界を関係のネットワークで見つめ直し、物事を可変・複合・動態の視点から考察し、民族をはじめとする様々な集団を固定化・類型化することを反省しなければならないだろう。


(28) Daniel Chernilo, A Social Theory of the Nation-State: the political forms of modernity beyond methodological nationalism, Routledge, 2007. 佐藤成基編著『ナショナリズムとトランスナショナリズム 変容する公共圏』法政大学出版局、2009年、14ページ。
(29) 吉野、前掲書、37-38ページ。牧原憲夫「日本はいつネーションになったか」大沢、前掲書、161ページ。
(30) 小坂井敏晶『民族という虚構』東京大学出版会、2002年、3-7ページ。
(31) 同上書、13、51、167-168、187-189ページ。