3. 戦後混乱期の青年時代 ―私の人生哲学

中西 治

第二次大戦後、12人の大家族が生活するのは大変であった。大阪市内は米国の空襲によって焼け野原になり、住宅も食料もなかった。私たち一家は幸いにして住む家があった。住む所がなく、防空壕や掘っ立て小屋で生活している人が身近にいた。戦争で家族を失い、身体や心が傷ついていた人がたくさんいた。戦場で人を殺めて生き残った人がいた。私は五条中学校を中途退学したが、学校へ行くどころではなかった。食べるために家族全員が必死の努力をした。私も家業の機械工具商を手伝ったり、得意先の工場で働いたりした。昼食を頂けたのが有り難かった。

この時期に私は大阪梅田の阪急百貨店で開かれていた古本市で伊藤痴遊の『明治政治裏面史』を手にした。どうしても読みたくなって、手持ちのお金にまけていただいて買った。百貨店で値切って買ったのは最初にして最後であった。伊藤痴遊は明治の自由民権運動家であったが、政治演説が禁止されたので講釈師となって講演した。無類の雄弁家であった。1928(昭和3)年の最初の普通選挙で衆議院議員に選出され、二期務めた。私はこの書をむさぼるように読んだ。面白かった。歴史と政治への関心が高まった。

生活が少し落ち着いたときに日本大学付属大阪第二中学校に入学した。夜間中学校である。1947(昭和22)年4月に小学校6年・中学校3年・高等学校3年の新しい学校制度が導入された。大阪第二中学校で学んだあと、1948(昭和23)年4月に新制の大阪府立市岡高等学校定時制に入学した。夜間高校である。家から近い大阪第二中学校から遠い市岡高校に移ったのは尊敬していた大阪第二中学校の歴史の先生が市岡高校に移られたからであった。夜間中学にも夜間高校にもさまざまな年齢・経歴・職業の男女が集っていた。戦争で生き残ったのに、自らの命を絶とうとした学友もいたが、多くの人々が苦しい生活のなかで真剣に学んでいた。停電が多かったので、蝋燭を持って学校に通った。

この時期に私はこれも古本屋で買い求めた幸徳秋水と堺利彦が訳したマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読んだ。エンゲルスの『空想から科学への社会主義の発展』を一読したとき、目から鱗が落ちる思いがした。

1952(昭和27)年3月に高校を卒業し、4月に大阪外国語大学ロシア語学科に入学した。五条中学校中退以来久しぶりに昼間に学ぶようになった。シベリアに抑留されていた人、中国東北や朝鮮から帰国した人、凄惨な戦場から生還した人がいた。中学・高校・大学でさまざまな人生を歩んできた人々に出会った。多士済々であった。多くのことを学んだ。

1956(昭和31)年3月に大学を卒業した。その直前にソヴェト共産党第20回大会が開かれた。スターリン批判が始まった。偉大な指導者として天まで持ち上げられていたスターリンが地獄に突き落とされるのを見た。最高権力者の失墜を昭和天皇に続いて再び目にした。三度目は毛沢東であった。いずれも絶賛していた同じ民衆によって罵倒された。

大学を卒業し、就職のために東京行きの汽車に乗り、列車が大阪駅を離れた瞬間、私は肩から重い荷が落ちるように感じた。独り立ちの人生が始まった。私の青年時代は終わった。私の人生哲学の基本はこの時期までにほぼ形成されていた。

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