1. 戦時下の幼少年時代 ―私の人生哲学

中西 治

私は1932(昭和7)年12月30日に大阪で生まれた。1931(昭和6)年9月18日に中国東北で「満州事変」が勃発した翌年である。父は1900(明治33)年3月3日に奈良県で生まれ、母は1905(明治38)年11月25日に島根県で生まれた。両親は大阪で結婚し、1925(大正14)年1月14日に婚姻届を提出している。私は5番目の子供であり、姉2人と兄2人がいた。これで「おさめておこう」ということで、「おさむ (治)」と名付けられた。

当時は「産めよ、殖やせよ」の時代、私のあとに弟が2人、妹が3人生まれ、私たちは10人兄弟・姉妹となった。それもいまでは私と弟1人、妹1人の3人となった。

1937(昭和12)年7月7日に中国北京で「廬溝橋事件」が起こり、「支那事変」が勃発した。中国での戦争が拡大した。1938(昭和13)年5月に国家総動員法が発令され、日本は戦時態勢に入った。私は1939(昭和14)年4月、6歳で大阪市立三津屋尋常小学校に入学した。小学校は1941(昭和16)年4月1日に国民学校と改称された。「皇国民の道に則りて初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を為すを以て目的と」した。

同年12月8日に「大東亜戦争」が始まった。緒戦、日本は真珠湾奇襲攻撃に成功し、香港、マニラ、シンガポールなどを占領、勝った勝ったとはしゃでいた。戦争が始まったとき、私は国民学校3年生、8歳であった。遂に大変なことが始まったという思いはあったが、なぜかはしゃぐ気にならなかった。

1942(昭和17)年6月に日本はミッドウェー海戦に敗れ、1943(昭和18)年5月にアリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊が「玉砕」した。戦局は急速に悪化した。 米国の爆撃機B-29による本格的な日本本土空襲が迫っていた。

1943年、国民学校5年生の後半に、母と私以下の子供6人が父の故郷近くの奈良県宇智郡五条町に小さな家を1軒借りて疎開した。私は同町立五条国民学校に転校した。1945(昭和20)年3月に同校を卒業し、4月に奈良県立五条中学校に入学した。同校1年生の夏休み中の8月15日に日本は敗北した。父や姉兄たち4人が住んでいた大阪の家に焼夷弾が落ちたが、不発であったため奇跡的に焼け残った。私たち疎開していた家族7人はただちに大阪の家に戻った。陸軍に入っていた長兄が復員してきた。久しぶりに家族12人が揃った。

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