ネパール情勢III:新首相誕生とカトリック教会爆弾爆発事件

植木 竜司

ネパール制憲議会 (定員601議席) は5月23日,新しい首相にネパール共産党統一マルクス・レーニン主義 (以下,UML) のマダブ・クマール・ネパール氏を選出しました。これで5月4日にネパール共産党マオイスト (以下,マオイスト) のプラチャンダ氏が首相辞任を表明して以来難航していた首相選びに,一応の決着を見ることとなりました。

今回の首相選出選挙では候補者は制憲議会22政党が推すネパール氏のみで,他には立候補者はいませんでした。議会第一党であるマオイスト (229議席),ネパール共産党統一派 (2議席),ネパール・ジャナタ・ダル (2議席)の3党は選挙をボイコットしました。

首相選出までは3週間弱の時間がかかりましたが,プラチャンダ氏辞任の数日後にはネパール氏を軸に調整が進められておりました。ネパール氏は議会第三党 (108議席) であるUMLの元総書記。第二党であるネパール・コングレス党(以下,コングレス,115議席) は候補者を出さないで,早々にネパール氏を首相とする連立政権樹立に向けて動いていました。焦点であった議会第四政党のマデシ人権フォーラム (54議席) はコングレス+UMLを中心とする連立政権に参加するか,自党で首相候補を立てるかで党を二分する論争が行われましたが,ネパール氏を首相とする連立政権に参加するという結論を出し,今回のネパール首相選出となりました。

名字が国名と同じ「ネパール (Nepal)」であるマダブ・クマール・ネパール氏は56歳。1993年よりUMLの総書記を務め,1994年11月の総選挙後に発足したUML単独政権では副首相のポストにつきました(約9ヶ月で政権崩壊)。このUML政権で首相だったマン・モハン・アディカリ党首が1999年4月に死去すると,党を指導するようになりました。昨年行われた制憲議会選挙では,立候補した二つの選挙区(制憲議会選挙では複数の選挙区からの立候補が認められていた)で敗退し,UML自体も議会第一党を期待されていたのにもかかわらず,結果は第三党と「敗北」を喫したため総書記を辞任しました。その後プラチャンダ氏が憲法委員会の委員長にネパール氏を推薦し,UMLの議員を一人辞任させてやっと議席を得ることが出来た人物です。

UMLはその立派な党名通りマルクス・レーニン主義を党指導原理とする共産主義政党ですが,1990年民主化以降議会で妥協を続け,明確な党方針を打ち出せなかったこともあり,現在では多くのネパール国民は「コミュニスト」と言えば「マオイスト」を連想し、UMLを連想する人はほとんどいない」状況です(ネパール情勢 III:〈インタビュー〉ネパール制憲議会選挙の結果と今後の見通し, 2008年5月2日)。しかし事実として連邦民主共和国となったネパールにおいて,初代に続き二代連続で首相に共産主義政党の人物が就いたことになります。

ネパールの共産主義運動が形成されたのは1947年のことであり,1949年9月15日にネパール共産党(CPN)となってカルカッタにて設立されました。王制に対する態度,中ソ対立,中国四人組失脚,国内民主化運動等を契機に分裂と統合を繰り返しました。現在ネパールには共産党が「乱立」しており,きれいに分類することはできませんが,大雑把にいって,親ソ・王制容認の態度を取っていた人びとがUMLの流れ,親中・四人組支持 (新中国のリーダーシップを認めず)・王制打倒の態度を取ってきた人々の流れがマオイストとなっています。

ネパールでは土曜日が日本でいう日曜日にあたりますが,新首相が選出された5月23日土曜日,休日であったこの日の朝,ネパール時間の9時15分ごろ,首都カトマンドゥ市に隣接するラリトプール市ドビガートにあるカトマンドゥ盆地最大規模のカトリックChurch of Assumptionで爆弾が爆発し,インド人の女子高校生1人を含む2人が死亡し,14人 (報道により13-15人) の負傷者がでるという事件が起きました。現場にはネパール・ディフェンス・アーミー(Nepal Defence Army)というグループの,ネパールのヒンドゥー国家化,サンスクリット語教育の中学までの義務化,ヒンドゥー教の祭りの日の祝日化などの要求が書かれたパンフレットが見つかっております。

ネパール・ディフェンス・アーミーはネパールでもあまり知られていないグループですが,昨年起きた東ネパールのダランでカトリック神父殺害や,同じく東ネパールのビラトナガルでのイスラム・モスク襲撃が疑われている団体です。退役軍人・警察やマオイストの犠牲者がメンバーとなっているといわれていますが,規模は不明です。

ネパールでは,国民の約80%がヒンドゥー教徒で,イスラム教徒は約4%, キリスト教徒は約0.5%といわれております。1990年憲法では四条一項で「ネパールは,ヒンズー的および立憲君主制的王国である。」と規定されており,世界唯一のヒンドゥー教が国教の国といわれておりました。それがマオイストと主要政党が協力してギャネンドラ国王の直接統治体制を崩壊させた「四月革命」と呼ばれる2006年4月の運動後,5月18日に下院議会で可決された「下院宣言2006」ではヒンドゥー教国であることをやめ「世俗国家」になることを宣言し,マオイストが当初より要求していた「世俗国家化」が実現することになりました。

過去には,2004年8月にイラクで人質に取られていたネパール人12人が「アンサール・アルスンナ」と名乗る集団に殺害されるという事件が起き,人質殺害を受けて一部群集が暴徒化し,交差点ではタイヤが燃やされ,交通は妨害,人材派遣会社・報道機関・モスク・中東の航空会社経営所などに対し投石や破壊等の暴力行為が行われ,エジプト大使館に群集が乱入しようとしたため警備員が発砲,一人が死亡,カトマンドゥ市中心部のラトナパークでも死傷者がでるという事件が起きたことがありました。このカトマンドゥでの暴動は「この国で初めての深刻なコミュナルな暴力の発生」と報道され,歴史上、民族的・宗教的紛争があまり表面化しなかったネパールにおいてイスラム教徒を標的とした暴動として衝撃を与えました。

現在のネパールは10年続いた内戦が一応終焉しましたが,国内には武器が蔓延し,国自体が軍事化しており,治安機能が充分に働いていないため,小さなきっかけで流血の惨事になる可能性を持っています。失業率も高く社会的不安も大きいため,今回のような“絶対的マイノリティ”を対象とした攻撃が続かないとも限りません。

昨年の制憲議会選挙でのマオイストの勝利は,国民が「変化」を求めていたのと同時に,内戦が続いたネパール社会の「安定」を求めた結果であったと思います。今後,UML,コングレス,マデシ人権フォーラムを中心として組閣が進められますが,議会第一党のマオイストが参加しておらず今後も抗議活動を続けることを表明していること,首相が与党第一党の人物ではないこと,首相自身選挙に勝っていないこと,マデシ人権フォーラムの党内対立が完全に収束していないこと,新憲法制定には全議席の三分の二が必要であることなどから,難しい議会運営になると考えられます。