エッセイ 47 スターリン個人崇拝について

木村 英亮

1956年にフルシチョフがスターリン批判を始めたとき、あなたはその時どうしていたのか、と問われた。ソ連解体後、ゴルバチョフには決断が足りなかったと批判している旧幹部にも、同じ問いを発することができるであろう。個人崇拝の下では、最高指導者以外は、かれに個人的に意見を述べて決定に影響を与えることに満足し、自分でイニシアチブをとることはできなかった。このような意識と行動は、絶対君主の下での廷臣の立場に似ており、個人主義の確立した現代人のものではない。

ソ連解体後、多くの旧ソ連党幹部による回想録などが出され、日本語にも翻訳された。そのひとつに、1991年末まで大統領主席顧問であったアレクサンドル・ヤコブレフの『歴史の幻影』(月出交司訳、日本経済新聞社、1993)がある。ここでは、改革を妨害したKGB(国家保安委員会、ソ連の秘密情報機関)が繰り返して非難されている。しかし、かれは党中央委員会思想宣伝部長であったので、他を批判するだけでは不十分で、われわれとしては、彼が自分の仕事をどのように総括しているかが一番知りたいところである。

また、CIAをはじめとする外国の情報機関の活動や資金の流入の全体像などもぜひ明らかしてほしかった。かれはCIA論をかいているが、われわれが知りたいのは、ソ連解体過程におけるその活動についてである。

丸山真男は、戦時中の日本の指導者が極東軍事裁判で、自分の責任について少しも反省せず、成り行きによってそのようになったとか、どうすることもできなかったと言っていることを批判した。日本では天皇崇拝があったが、天皇自身も他の選択はとりえなかったと同じような感想を述べている。中国が問題にしている「靖国問題」は、本質的にはこのような戦争責任をだれも自分の問題としていないという「歴史問題」に対する日本人の対応を衝いているのではないであろうか。

いまロシアでも日本でも無責任体制は強く残っている。それは個人崇拝とセットをなしているものである。その意味では、個人崇拝は、ロシアでは依然として克服されておらず、日本においても他人事ではない。君が代の歌唱を強制するような個人の人格を認めない体質は、まさに個人崇拝と共通のもののように思われる。