キューバを訪ねて(4)「1962年のキューバ・ミサイル危機」

中西 治

2008年2月28日(木)にハバナの防衛情報研究センター (Centro de Estudios de Información de la Defensa = CEID) を訪問しました。私は東京でコシーオ大使に1962年のキューバ・ミサイル危機に関心を持っていることを申し上げました。大使からこのことを伝え聞いたハバナのアジア・オセアニア研究センターのイバニェスさんが防衛情報研究センターでの会合を準備して下さいました。このセンターは2001年9月26日に設立された若い研究機関です。

防衛情報研究センターではビダル(Dr. C Manuel Carbonell Vidal)副センター長とディアス(MsC Enrique R. Martinez Diaz)分析員、それに、もう一人キューバ・ミサイル危機問題の専門家が私たちとの話し合いに参加されました。最初にこの専門家が映像を使って事件の経過とキューバ側の見解を明らかにされました。

1959年1月1日午前2時にバチスタがキューバから脱出し、ドミニカ共和国に亡命しました。キューバ革命は成功しました。フィデル・カストロは同年2月16日に首相に就任し、4月にはアイゼンハウアー大統領下の米国を訪れました。フィデル、32歳でした。米国との関係が悪くなり始めたのは、同年 5月にキューバの革命政権が土地改革に着手してからです。ソヴェト製原油の精製を拒否した米国系石油企業をカストロ政権が1960年6月に接収しました。革命キューバとソヴェトとの関係が深まりました。

1961年1月に米国はキューバとの国交を断絶しました。同年4月にキューバは社会主義革命を宣言しました。キューバの反革命勢力はケネディ大統領下の米国の支援をうけて、キューバ本土中部のカリブ海側の豚湾(Bahía de Cochinos)のヒロン海岸に上陸しました。この勢力はカストロの革命軍によって撃退されました。キューバと米国との関係は決定的に悪くなりました。フルシチョフのソヴェトは1962年10月にキューバ革命をまもるためと称してキューバにミサイルを持ち込みました。

私は、ソヴェトのミサイルをキューバへ持ち込むという構想は最初にいつ、誰が考えついたのか、と尋ねました。防衛情報研究センターの方々は次のように答えました。

キューバ・ミサイル危機については、ケネディ大統領がキューバにソヴェトのミサイルが存在するとの報告をうけた1962年10月16日から28日までの「危機の13日」がもっぱら論じられている。これは的はずれである。危機はバチスタに対するカストロの1953年7月26日のモンカダ兵舎襲撃の時から始まっている。危機の主要な原因は米国のキューバに対する攻撃である。本格的な危機の始まりは、10月22日に米国が海上封鎖を開始した時である。

キューバにミサイルを配備する考えは、1962年にフルシチョフがブルガリアのバルナで休暇中に浮かんだものである。カストロはミサイルについて何も考えておらず、キューバへのソヴェトのミサイル配備は不要であると思っていた。カストロがそれを容認したのは、米国のキューバ革命への介入を阻止するためであった。また、米国がイタリアとトルコにミサイルを配備していたので、ソヴェトのミサイルをキューバに受け入れることによってバランスをとるためであった。カストロはキューバからのソヴェトのミサイル撤去をラジオ放送で初めて知った。

私は1962年以降の経過はその通りであるが、すでに1961年にソヴェトは核兵器について考え始めており、キューバもそのことを知っていたのではないかと尋ねました。1961年7月にフルシチョフはソヴェトの教員を前にして演説し、キューバが侵攻された場合にはソヴェトはキューバに対して核で支援すると述べています。また、同年11月にソヴェトを訪問したゲバラはキューバに帰国したあとのラジオ演説で米国人はキューバに侵攻すればソヴェトの核兵器を味わうことになるであろうと語っています。フルシチョフもゲバラも、キューバに配備された核によってとは言っていませんが。防衛情報研究センターの研究者たちはその事実を知らないと言っていました。

最後に、私は、この事件のあとソヴェトは米国との秘密の合意にもとづいてトルコから米国のミサイルを引き揚げさせた、また、米国にキューバ革命に対して直接の軍事介入をさせなかったのではないか、と指摘しました。これに対して研究センターの方々は、そうではなく、米国がキューバを攻撃できなかったのは、キューバ人の強い意志と行動の結果である、その証拠にソヴェト崩壊後も米国によるキューバ攻撃はおこなわれていない、と強調しました。なかなかの自負です。

1868年の第一次キューバ革命のときの革命歌=現在の国歌が誕生した地バヤモや1953年のカストロ革命の口火を切ったモンカダ兵舎なども訪問しました。フィデルとラウルのカストロ兄弟とキューバ革命については稿を改めて書きます。

(終わり)