久間発言に寄せて

中西 治

久間章生防衛大臣が2007年6月30日に麗沢大学での講演で「原爆を落とされた長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないなと思っている」と述べ、厳しい批判をうけ、7月3日に大臣を辞任しました。

また、米国政府のロバート・ジョセフ核不拡散問題特使(前国務次官)が3日に首都ワシントンで開かれた記者会見で「米国は長崎と広島に原爆を落とし、多数の市民の命を奪った。これは技術の無責任な利用ではなかったか」との質問に答え、「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の万単位の人命だけでなく、文字通り、何百万人もの日本人の命を救ったという点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」と語り、論議の火に油を注いでいます。

これら二つの発言は戦争と兵器について多くのことを考えさせますが、ここでは一つのことについてだけ書きます。それはこれらの発言の前提になっている、日本がポツダム宣言を受諾するうえで決定的な役割を果たしたのは広島・長崎への原爆の投下であったのか、それとも、そうではなく、ソヴェトの対日戦争への参加であったのかの問題です。

日本の敗戦がもはや決定的になった1945年7月26日に米国のトルーマン大統領、中国の蒋介石大総統、英国のチャーチル首相の3人は ポツダム宣言を発表し、全日本軍に無条件降伏を要求しました。日本はこの「無条件降伏」の語句にこだわり、「国体=天皇制の維持」が明記されていないことに不安を感じ、この宣言を「黙殺」しました。連合国はこれを日本によるポツダム宣言受諾の拒否と受け取りました。広島・長崎の悲劇とソヴェトの対日参戦にともなう悲劇が起こりました。もし、日本政府が即座にこの宣言を受け入れていたならば、これらの悲劇は回避されました。政治における決断の重要性を改めて感じます。

8月6日に原子爆弾が広島に投下されました。東郷茂徳外務大臣は鈴木貫太郎首相に最高戦争指導会議の開催を求めましたが、首相はこれに応じませんでした。8月8日午後5時(日本時間同日午後11時)にソヴェトは日本に宣戦を布告し、翌9日から戦争状態に入る旨を通告しました。鈴木首相は「いよいよ来るものが来た」と感じ、9日午前11時前から最高戦争指導会議を緊急に開きました。会議は午後1時まで続きましたが、結論は出ませんでした。午後2時半から臨時閣議が開かれ、午後4時すぎに長崎にも原爆が投下されたことが閣議に伝えられました。会議は午後5時30分から6時30分までの1時間の休憩をはさんで午後10時すぎまで続きましたが、結論は出ませんでした。ついに、同日午後11時50分ころから昭和天皇の御前で最高戦争指導会議が開かれ、最後に昭和天皇がポツダム宣言の受諾を決定しました。時に1945(昭和20)年8月10日午前2時30分でした。

これらの会議で原子爆弾はどのように論じられていたのでしょうか。たとえば、阿南惟幾陸軍大臣は午前中に長崎への原爆投下があった9日午後の臨時閣議で、8日に捕虜にした米空軍将校の供述を紹介し、原子弾は1発にして6平方マイルを破壊し、その爆力は500ポンドの爆弾36を搭載せるB-29, 200機に該当すると述べていますが、「その効力は空の色の明るい時が著しく、雨天には効力少なく、日中には効力が大きい。地下壕は丸太の程度で覆うてあれば十分である。裸体は禁物で白色の抵抗力は強い。農作物や立木には大なる被害はない。熱風により焼失することはない。建物などは上から圧しつぶされる。したがって、鳥居などはそのままで、電車、汽車なども脱線する程度である。地上に伏しても毛布類を被っているとよい。」でした。

広島と長崎に原爆が投下された当時の日本の最高戦争指導者たちの原爆の威力についての認識はこの程度でした。だから、広島に原爆が投下されたあと、最高戦争指導会議の開催を求めた外相の要請に首相は応じなかったのです。ところが、ソヴェトが対日戦争に参加した途端に昭和天皇の参加した最高戦争指導会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾が決まったのでした。何がポツダム宣言の受諾に決定的な役割を果たしたのかは論を待たないでしょう。日本国民の多くが原爆の恐ろしさを知るのは、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効したあとのことでした。