エッセイ 54 善意と純情

木村 英亮

わたしの好きな小説に伊藤 整『氾濫』(新潮文庫、1961)がある。主人公・真田佐平は、化学技師で会社重役であり、研究業績と資金力で学会でも実力者である。彼を中心として国立、私立大学の教員、助手などが、金、名誉、地位、性などを争うという内容で、奥野健男は解説で、「人間の装いやごまかしをすべて剥ぎ取り、エゴイズムの醜さ、いやらしさ、あわれさを飽くことなく、繰り返しほじくり出」(548-9)し、ただ人間の内部の真実の姿だけを、人間は偽りの中に生きているという救いのない人生観をたんたんと書いていると記している。

しかし、わたしはこの小説を読むと、なぜかやすらぎを覚える。それは、ここに嘘がないからである。

真田の専門は接着剤の研究で、学会は高分子学会という。私は同名の学会の主宰する小さな会に呼ばれ2回ほどソ連の話をしたことがある。そのとき、このフィクションを思い出していた。伊藤は、どうしてこの名の学会を舞台に選んだのであろうか。

中野好夫は『悪人礼賛―中野好夫エッセイ集』(ちくま文庫、1990,11ページ)で、動機が善意であれば一切の責任は解除されるといった考え方をする善意と純情の人ほど、退屈でしかも始末に困るものはないと書いている。妥協せずに真実を貫くことは、「善意と純情」だけではできない。甘えは、とくに日本的な欠点である。

似たようなことで、シベリア抑留記で、骨身にしみた弱者のいやらしさということを読んだことがある。弱者の自分より弱い者に対する残酷さについても油断ができない。

私の観察では、「善意と純情」にもっともおぼれやすいのは、教師であると思う。