タイのクーデタ その2:新首相スラユット=チュラーノンで思い出すこと

高橋 勝幸

2005年12月11日、旧解放区へ向かうスラユット=チュラーノン

スラユット=チュラーノン大将が2006年10月1日、24人目のタイ国首相に就任した。父パヨームはタイ共産党のタイ国人民解放軍の参謀として、息子のスラユットと長い間対峙したことがある。父親が共産党軍の幹部であったことから、スラユットの昇進は一時遅れた。1978年から1988年までの10年間、プレーム首相の副官を務めた。チャートチャーイ政権を打倒したクーデタ後、1992年5月、スチンダー大将の首相就任に市民が反対し、スラユットが率いた特殊部隊が発砲し、流血事件に発展した。スラユットはこの経験から、軍部の政治不介入を決意したという。1998年に陸軍司令官になり、東ティモールの国連平和維持軍参加とその成功により、軍のイメージを回復した。タクシン首相との確執により2002年、閑職の国軍最高司令官に就任し、2003年退役した。3ヶ月の出家後、プレーム枢密院議長によって枢密院議員に推された。

私は抜き差しならない政情不安にもかかわらず、このクーデタの発生を予期しなかったが、スラユットのような退役軍人が首相になることも予想しなかった。国内外の世論の反発から、軍部に影響力をもつ人物が首相に就くとは考えなかった。クーデタ直後にプレーム枢密院議長や首謀者のソンティ陸軍司令官とともに、スラユット枢密院議員もチットラダー王宮で国王に拝謁しているからである。また、クーデタを実行した「国王を元首とする民主体制の下で統治の改革を実施する評議会」は速やかに民政移管をすると約束していたからである。私は2つの判断ミスをした。1991年のクーデタをいれれば、3つの予想が外れた。タイに関心をもって20年近くになるが、現実政治は水物で、実に扱いにくい。

昨年、すなわち2005年12月11日、タイ共産党が1970年代に本部を置いた解放区で私はスラユットを見た。ナーン県プーパヤックにタイ共産党を記念する博物館などの施設が建設され、その開所式が行なわれた。父パヨームも当地で活動していたので、スラユットも見えたわけである。

パヨーム=チュラーノンその父パヨーム=チュラーノン中佐は1947年11月8日のクーデタにタイ国軍最高司令部のスポークスマンとして加わった。このクーデタは政情不安を解決するために行なわれ、その後は、軍部は政治から手を引き持ち場に戻り、民主主義にのっとり民政移管されると、パヨームは信じていた。1947年クーデタはプリーディー=パノムヨンをリーダーとする抗日自由タイ派の文民政権を打倒し、タイの民主化を大きく遅らせたといってよい。パヨームはその後、陸軍を辞職し、1948年1月29日の国会議員選挙に立候補し、ペッチャブリー県から選出された。パヨームはクワン政府の国防大臣補佐官に就任した。クーデタ=グループはクワン首相に辞職を強要し、ピブーン元帥が首相に返り咲いた。国防大臣は続投したが、パヨームは補佐官を辞職した。軍の腐敗と政治参加に反対し、1948年10月1日に決行を予定していた「参謀本部反乱」に参加したが、そのクーデタは失敗した。それはサリット少将の結婚式の日を狙い、パヨームは式場の首相府でピブーン首相、ピン=チュンハワン中将、カート中将、サリットらクーデタ=グループの幹部を逮捕する予定であった。しかし、クーデタ計画は前日に漏洩した。パヨームの逃亡は成功した。パヨームは逃亡中に、タイ共産党に参加したと思われる。パヨームの最初のタイ共産党の接触は第二次大戦中であった。パヨームは、ピブーンの対日協力に反対であったので、抗日運動に協力しようとした。パヨームは共産党の政策に当初反対であったが、クーデタでは(戦後)ピブーン政権を打倒できないと認識すると、人民の革命の必要性を感じ、入党を決心した。中国に亡命し、1952年から1954年にかけて北京のマルクス・レーニン主義学院で学んだ。1961年9月の第3回党大会で党中央委員会委員に選出されたと思われる。

スラユットは、父と考え方は異なっても、父子の絆は変わらないと述懐した。スラユットは1980年、北京で療養中の父と亡くなる直前に再会した。この頃はまだタイ国内ではタイ共産党が治安の脅威であったが、プレームの取り計らいで、チャートチャーイ=チュンハワン少将(パヨームが逮捕しようとしたピンの長男)の訪中団に参加した。中国側は党の保護下にあるパヨームの面談を拒否したが、外交経験豊かなチャートチャーイが鄧小平と交渉して、再会が実現した。その数ヵ月後に、パヨームは亡くなった。

一方、スラユット首相の母アムポートは、ボーウォーラデート親王の右腕のプラヤー=シーシッティソンクラーム大佐を父にもつ。母方祖父は、立憲革命後の政府を共産主義として、1933年10月11日人民党に反対して蜂起したその反乱で戦死した。

今回の首相人事は、プーミポン国王、プレーム枢密院議長、スラユット首相、国家治安評議会議長であるソンティ陸軍司令官のラインを浮き彫りにした。その中で、新首相は反体制運動の血統つきである。父は国王の天敵であった共産党幹部、母はボーウォーラデートの反乱に参加した勤王派の娘である。相対立する反体制派の混血児スラユット首相がタイの民主化に向けてどれだけ力を発揮できるのかが注目される。

革命の英魂へ読経 復元されたパヨームの住居 タイ共産党本部があったナーン解放区