第三の一神教イスラームの誕生前史 ―中東イスラームの歴史と現在 (4)

岩木 秀樹

7世紀の初頭、ビザンツ帝国とサーサーン朝という世界の西半分を支配した二大帝国の辺境に、一つの宗教運動が出現した。それがイスラームであり、次第にビザンツ帝国領の大半、サーサーン朝の全域を含み、中央アジアからスペインにまで拡大した。権力の中心はアラビア半島から、ウマイヤ朝カリフの下でシリアのダマスクスに、その後アッバース朝時代にはイラクのバグダードに移動した。

それらの地ではアラビア語が普及し、文化を伝達する媒体となった。地中海地域に張りめぐらされたネットワークとインド洋のネットワークは、単一の交易システムを生み出し、農業と産業に変化をもたらし、イスラーム固有の建築物に代表される都市文明をもち、大都市の成長の基盤を提供した。(1)イスラーム文明は現在においても生き、国際政治など様々な点で大きな影響力をもたらしているのである。このように世界各地に拡大した第三の一神教であるイスラームの誕生に至るまでの歴史的経過をここではまず見ていくこととする。

今から3000年ほど前から活躍し始める中東の遊牧民は、砂漠や広野に孤立した生活を営む人々なのではなくて、商品としての家畜を飼養して販売する商人でもあり、ラクダなど飼養している家畜を利用しての運送業者でもあった。都市民はなにがしかの商取引に従事していた。このように中東イスラームは、商業的・都市的環境のもと、個人の資格で他者と契約する自立した人々よりなる社会であった。(2)

中東イスラーム世界の生態的環境は規模、形態、植生を異にする砂漠オアシス複合体が点々と立地する空間であり、砂漠オアシス商業システムとでも呼べる商人の活動を介して形成される経済システムが形成された。この市場圏に見る中東イスラーム世界の特徴としては、第一に農業、遊牧・牧畜業、商工業の分業システムにおいて、遊牧・牧畜業の占める重要性が他の世界に比べて相対的に高いことである。第二は、そこでの市場圏がそれ自体一つの完結した閉鎖的経済圏を形成することなく、都市を結節点として、様々な規模の交易圏と重層的に結びつくことによって、広く対外的に開かれていたことである。中東イスラーム社会の繁栄は国際交易に大きく依存していたが、この事実はこの社会が歴史的事件に左右されやすいという構造的脆弱さを持っていたことも意味した。(3)

遊牧の占める割合が強いこの地域では、ベドウィン(アラブ系遊牧民)のメンタリティがイスラームに一定の影響をもたらしたと思われる。ベドウィンの生活は豊かではなく、降雨がなければ牧草も家畜も育たない。飢餓に直面し、定住民や他部族を襲い、略奪をする。しかしそこには一定のルールがあった。それは人を殺さないということであり、殺せば必ず報復を受けるからである。また過酷な沙漠的風土の中で常に危険と背中合わせに暮らすベドウィンにとって、客人や助けを求める者に対しては、これを快くむかえて保護を与えることが義務とされたのであった。(4)

イスラーム以前の時代はジャーヒリーヤと呼ばれる。ジャーヒリーヤとはアラビア語で無知・蛮風を意味する。したがってジャーヒリーヤ時代とは元来ムスリムによる呼称で、いまだイスラームという真の宗教・生活様式を知らなかった無明時代の意味である。狭義では特に5世紀から7世紀初めまでを指す言葉であり、ここでもそれを借用する。

ジャーヒリーヤ時代の社会は部族社会であった。メッカなどの都市に住んで商業や農業を営んでいる定住民であれ、砂漠に住んでラクダ・羊・ヤギの放牧を生業とするベドウィンであれ、それぞれ各部族集団を形成していた。(5)この時期は部族間の対立・抗争が激しく英雄達の活躍した時代であった。この時代が文化史的に重要なのは、英雄であり後代の模範となる詩人が多く輩出されたことである。遊牧民が持ち運べる財産は限られている。優れたじゅうたん、身につける装飾品とならんで、美しい言語は彼らが自由に運ぶことの出来る最良の財産の一つである。部族の戦いは戦闘だけでなく、詩人の戦いでもあった。勇敢な戦いは、それを讃える優れた詩によって初めてアラビア半島全域に流通するメディアを獲得する。このような詩人の活躍によって、各部族の方言を超えた共通アラビア語が姿を現し始めたのである。またこのような詩の影響をコーランも受けていたと思われる。(6)

この時代の多くのアラブの宗教はアニミズム的偶像崇拝であった。聖岩・奇岩・偶像を氏神として尊崇し、これに現世利益を願うものであった。これらの偶像神には特定の各部族集団個々に、あるいは複数の部族集団によって尊崇されたものがあった。しかし当時すでにこれらはなかば儀礼化・形骸化していた。多神教としての偶像崇拝から一神教イスラームへの転回は偶像崇拝の形骸化だけでは説明できない。アラブへの至高神の意識と浸潤と一神教の浸透がイスラームへの転回の橋渡しをした。さらに偶像崇拝の直接的契機となったのは、アラビア半島へのユダヤ教とキリスト教の流入である。ムハンマドによる一神教イスラームの創唱には、偶像崇拝信仰の形骸化、至高神の観念の存在、キリスト教とユダヤ教の流入という背景があったのである。(7)前にも指摘したが、紀元前の時代からアラビアは交易センターとしての都市を発達させてきた。そこに住む人々はコスモポリタンな精神の持ち主なのであり、地縁・血縁を基盤とした神ではない、より普遍的な神を求め始めていたのである。アラビアの人々の間にも、ユダヤ教やキリスト教のいう、唯一にして全能という絶対神を受け入れる土壌がすでに出来つつあったのである。

ムハンマドが生まれたメッカは多神教による偶像崇拝の中心であると同時に、紅海の入り口にあるアデンとシリアの諸都市を結ぶ結節点として、とりわけ重要な商人の街であった。(8)6世紀なかば頃までのメッカは八百万の偶像神を擁するカーバ神殿に依拠した地方的宗教・通商センターの一つにすぎなかった。そのメッカが一躍アラビア半島随一のそれとして台頭しえたのは、クライシュ族が東西交易に関わるようになって以後のことである。6世紀なかばに、ムハンマドの曾祖父ハーシムの頃からクライシュ族は遠隔地貿易に乗り出した。夏には北のシリアに、冬には南のイエメンに隊商を派遣した。この際、隊商が通過する道々を領有する各部族集団と盟約して金品と引き替えに彼らから通交の安全保障をえていた。クライシュ族のこの通商活動を一層有利にしたのがビザンツ帝国とサーサーン朝の対立・抗争による東西交易の幹線ルートの衰退である。(9)このような時代背景のもと、570年頃、最大にして最後の預言者となるムハンマドがメッカにおいて、クライシュ族のハーシム家に生まれたのである。

  1. Albert Hourani, A History of the Arab People, The Belkmap Press of Harvard University Press, 1991.アルバート・ホーラーニー著、湯川武監訳『アラブの人々の歴史』第三書館、2003年、5頁。
  2. 後藤明「巨大文明の継承者」「イスラーム国家の成立」佐藤次高他編『都市の文明イスラーム』講談社現代新書、1993年、39頁。
  3. 加藤博『文明としてのイスラム』東京大学出版会、1995年、39、40、51頁。
  4. 中村廣治郎『イスラム教入門』岩波新書、1998年、21−2頁。
  5. 佐藤次高他「アラブ・イスラーム世界の形成」佐藤次高編『西アジア史 アラブ』山川出版社、2002年、125頁。
  6. 中村、前掲、28頁。小杉泰『ムハンマド』山川出版社、2002年、57頁。
  7. 佐藤、前掲、127−9頁。
  8. 屋形禎亮他『西アジア』朝日新聞社、1993年、99頁。
  9. 佐藤、前掲、130−1頁。

目次

  1. はじめに
  2. 文明の故郷・中東
  3. ユダヤ教とキリスト教の誕生
  4. 第三の一神教イスラームの誕生前史