タイのクーデタ

高橋 勝幸

「国王を元首とする民主主義体制下の統治改革グループ」が2006年9月19日夜半、バンコクでクーデタを決行した。タクシン首相が国連総会出席等外遊によりタイを留守にしている間の出来事であった。実に1991年2月23日以来、15年ぶりのクーデタである。プミポン国王の承認のもと、現在、「国王を元首とする民主体制の下で統治の改革を実施する評議会」が国家を運営している。

正直いって、私はクーデタがまさか起こるとは予期していなかった。私は1987年10月から1988年9月まで1年間、2001年6月から2004年5月まで3年間、タイに滞在していたことがある。私は前回のクーデタが打倒したチャートチャーイ政権が発足した年、そして今回のクーデタが倒したタクシン政権の最初の3年間をタイで過ごした。チャートチャーイ政権の「インドシナを戦場から市場に」という政策は、ポル=ポト派を含む3派連合から距離を置き、実効統治しているヘン=サムリン政権と交渉した。この経済・外交政策はタイの優越性に対するカンボジア人の反感を後に招いたが、私は対立・没交渉よりよいと思った。しかし、ポル=ポト派と利権のあるタイ軍は反発した。一方、タクシン政権は、ポピュリズム政策 ―1村1品運動、一律30バーツ治療制度、農民への債務繰り延べ、100万バーツ村落開発基金など― と批判されながらも、貧困と農村振興に正面から取り組み、北部、東北部で絶大の人気を博した。タクシンが他人の批判に耳を傾け、ビジネス倫理観をもてばよいのにと、私は常々思った。タクシンはタイにとって異色の首相であり、私は興味深く観察していた。

しかしながら、私はタクシン政権下にバンコクで暮らしてまもなく、一昔前なら、すなわち、前回のクーデタ時の1991年なら、クーデタが必ず起こるとも思っていた。というのは、タクシンは警察官在職中の1980年代にコンピュータを警察に貸し出すサービスを始め、電機通信ビジネスで成功し、1998年タイ愛国党を創設した。政府の許認可が必要な携帯電話、衛星、格安航空などで親族が巨富を築いた。タクシン首相は議会の圧倒的勢力と資金にものをいわせ、中央集権化を図り、独裁的傾向を帯びた。2003年2月に「麻薬取り締まり戦争」が宣戦布告され、最初の3ヶ月間で2,000人以上が殺害され、さすがに国内外から人権批判を浴び、控えたものの、3,000人近い人が殺された。国連による人権批判には、「国連は親父でない」と反論した。聞くのはポッチャマーン夫人の意見だけという噂が流れるほどであった。南タイでは、テロが横行し、政府の抑圧的政策がテロに拍車をかけた。しかし、軍部の政治的役割が後退し、民主化が進み、1997年の通貨危機を克服して、経済成長を進むタイで、クーデタが実際に起こるとは信じられなかった。

前回1991年2月23日のクーデタの際も、まさかの出来事であった。高い経済成長、外国の観光客や投資の増加、政治的安定、民選の首相のもとで、クーデタが決行されたからである。しかも、1977年10月20日以来、およそ13年半クーデタは成功していなかった。1991年のクーデタの理由の一つは国会の独裁である。末廣昭氏によると、タイ式民主主義は、国会を私物化する政党政治を批判し、これを駆逐するクーデタは民主主義の破壊ではなく、政治的安定を実現する、という。

今回と前回のクーデタとの共通点がいくつかある。第一に、クーデタの理由として、政治家の汚職、政党による独裁が挙げられたことである。第二に、民主化が定着する中であった。第三に経済が高度成長を維持し、外国人観光客が増加する中で行なわれたことである。第四にプミポン国王が役割を果したことである。第五に軍部の人事が絡んでいたことである。第六に、国民の大多数が、民主主義の否定であるクーデタを支持したことである。

決定的な違いは、今回、政情がタクシン派と反タクシン派に2分されていたことである。タクシン首相退陣を求める運動が勢いを増す中、タクシン首相の国王に対する不敬な言動―例えば「憲法を超えたカリスマのある人が政治に混乱をもたらしている」―は国内世論に大きな影響を与えた。また、軍部の政治的影響力が決定的に減少したものの、枢密院、すなわち、国王の取り巻きの退役将官が重要な役割を果したことである。国王とタクシン首相の確執が根にあった。前回は、国王はクーデタ後の民主派(市民)と反民主派(軍部)の対決の仲介の労をとった。今回は、タクシン首相と国王あるいは国王の取り巻きとの対立が決定的な要因であった。

王制はタイの国家の正統性原理の一つであるが、タイを安定させ、国民が信奉し、支えているのは王制というよりも、プミポン国王個人といってよい。歴史を振り返れば、タイは、世界恐慌を背景に、若手将校、中堅文民官僚の政府に対する不満が鬱積し、かれらが1932年6月24日にクーデタを決行し、専制君主制から立憲君主制に移行した。その後最初に成功したクーデタは1947年11月8日である。第二次大戦において日本と協力したピブーン軍事政権は日本の敗戦の前に抗日文民政府と民主的に政権を交代した。しかし、戦後の経済的混乱、1946年6月9日のアーナンタ国王の変死、冷遇された軍部の不満は、アジアに拡大する冷戦も助けて、1947年の退役将校によるクーデタを成功させた。プミポン現国王は兄の国王の死去により、その前年の1946年に即位した。今年6月9日には盛大に即位60周年が慶祝された。タイでは長らく、クーデタ⇒暫定政府発足⇒憲法制定⇒総選挙⇒政府発足⇒安定期⇒政治危機⇒クーデタのサイクルを繰り返してきた。戦後、すなわち、1947年から今回まで、失敗を含めてクーデタは15回を数える。プミポン国王は、この最初のクーデタから今回のクーデタまで、観察、仲裁、あるいは関与している。現在のタイにあって、最もタイの政治のカラクリを知悉しているのが国王であるといってよい。

王宮前広場2006年2月26日
王宮前広場2006年2月26日。タクシン首相の退陣を求める市民団体「民主主義市民連合」の集会開始前の風景(筆者撮影)