エッセイ 58 教員の限界の自覚について

木村 英亮

渡辺一夫は、辰野隆に「俺たちは、東大の教師だということになっているから、何とかやっていけるんだぜ。そうでなかったら、世間からはなもひっかけられねえよ」と言われ、別の機会に、「大学教師と乞食とは、三日やったらやめられねえね」ともふざけられた、と書いている(『ちくま日本文学全集・渡辺一夫』、1993,343ページ)

56歳のとき東京工業大学の「文学」教授となり、定年まで4年勤めた作家の秦恒平は、概論や講義で学生に無駄な負担をかけないで、「わたしの教室から、授業から、そして教授室からも、一つぶ二つぶの『砂金』をつまんで帰ってくれて、幸いに生涯だいじに記憶してくれますように」(『東工大「作家」教授の幸福』、平凡社、1997,13ページ)という心構えで教室に出た。「学生たちの心からの言葉を、教室で、教授室で、豊かに溢れ『みちびき』出すことならば、わたしにも出来ると思った。それこそが理系『文学』教授の仕事だと思っていた。結果として、わたしはなに教えず、学生諸君にたくさん教えてもらった。ほんと、楽しかった」(147ページ)と書いている。

なだいなだは、旧制中学で成績がよくなく、医学部進学を諦めようかと教員に相談すると、「『マグレってものもあるからなあ、頑張れや』といってくれた。なぜか、彼は無責任だったから」(『こころ医者の手帳』、ちくま文庫、1998,171ページ)と感謝する。そして、「子どもの人生まで指導出来るという思い上がりは、善意から発しているとしても、鼻もちならない」(173ページ)と書いている。

私も教員の仕事には限界があるという認識は大切であると思う。大学や大学院のトラブルの多くは、教員の責任意識が強すぎお節介が過ぎるところから生まれる。「一生面倒を見てやるから」などという無責任教員もいるようであるが、そんなことができるはずもない。教員がまず伝えなくてはならないメッセージは、他人はあてにすることはできず、自分に実力をつける他はない、ということであろう。