ひとつのアメリカ論

わたなべ ひろし

僕がよく覗いているブログの中に、次のような「アメリカ論」があった。

「中国もそうだけど、アメリカという国は本当に優秀。自分たちの利益になるために、どこにどう作用すれば、どういう力が働いて自分たちのために動くのかをよく研究して理解していると思います。」
http://yaplog.jp/dione/category_1/

これは僕がいつもアメリカという国に対して感じていることでもある。そしてアメリカのこのような「優秀性」は、イケイケドンドンの絶好調なときよりも、変動期や転換期など、大変なときにとりわけ発揮されるのではないだろうか。例えば「ピンチはチャンス」とか、「ころんでもタダでは起きない」とか、アメリカのためにあるような言葉だとしみじみ思う。これらの言葉は、本来ひとつの「人生観」みたいなものなのであろうが、それがアメリカ人の手にかかると、そういうことを実現するための具体的な「手法」みたいなものを、実際に彼等は「開発」しているような、そんな気にさえさせられる。

金融工学の今野浩さんの本にこんなことが書いてあった。

「1980年代半ばはバブルの初期に当り、巨額の利益を手にした日本の金融機関が雪崩を打って海外に進出した際、彼らがウォール街で目にしたのは、不況の宇宙産業から転出したロケット・サイエンティストと高エネルギー加速器プロジェクトの打ち切りで職を失った物理学者たちの群れであったという。折から金融派生商品が投資家の人気を集める中、新商品開発や試算運用の場面で、数理工学と計算機に強い「クオンツ」たちが華々しい活動を行なっていた。」(『金融工学の挑戦』p4-5、なお引用は要約)

今野さんのこの記述を読んで、ここにアメリカの「優秀性」というものを考えるヒントがあるような気がした。それを言葉にすると「特定の問題領域や課題を(競技場みたいに)フィールドとして設定し、そうすることでそこに人材や資本が殺到するようになり、よってたかって打開策を案出する」というような感じだろうか。

具体的に言えば、例えばここでは「金融」というものを、いわゆる「経済学」と切り離し、純粋に「工学」的フィールドに設定することで、特に経済学的な専門知識があまり無くとも、「数理工学と計算機に強」ければ誰でもマーケットに参入できるようなものにしたということなのである。こうすることで、特定の問題や課題を解決するために調達できる人材や資本の幅が格段に広がり、しかもその調達先が「不況の宇宙産業から転出したロケット・サイエンティストと高エネルギー加速器プロジェクトの打ち切りで職を失った物理学者たち」というのだから、斜陽分野から新興分野への人的資本や高度技術の再利用にもなっている。

そして今では、経済の分野の中で金融工学がメインストリームとなり、アメリカ主導のグローバリゼーションを引っ張っている。

こういうやり方、つまり「衆の力を頼めるような形にフィールドを設定し、よってたかって問題を解決する」というやり方は、競争相手や困難な局面が明確なとき、一層その威力を発揮する。なぜならそういうときはフィールドを設定しやすいし、課題(敵?)が明確な分、自分の現在手持ちの技術やキャリアがどの程度そこで有効か目算がつきやすいため、人材の流入もそれだけ容易になるからである。

ところがアメリカのこういうやり方は、有効性が大きい分、それだけ大きな欠点もそこに内在させているのではないだろうか。それは、一度走り出したら躊躇が無くなるというか、抑えが効かなくなるということである。僕がアメリカの「優秀性」に感心しながらも、彼等に対していつも抱いている危惧がこれである。

19世紀のフランス人、アレクシス・ド・トックビルは、自著である『アメリカのデモクラシー』の中で、「平等な多数者」というものに依拠するアメリカのデモクラシーに、特権階級に依拠する母国フランスの「アリストクラシー」とは異なる強さを感じ、そこに歴史的な次代性を見て評価をしている。

しかしその一方でアメリカのデモクラシーが、多数者を拡大し、多数者に依拠するあまり、多数者しかいなくなってしまうという状況、少数者や反対者がいなくなってしまうという状況を常に出来させる可能性をそこに含んでいると指摘する。彼はそれを「多数の専制」と呼んだ。

「一つの問題に関して多数(派)がいったん形成されると、その行く手に障碍というべきものは何もない。行く手をさえぎるといわないまでも、その速度を鈍らせ、それが行きずりに押しつぶしていくものの苦情に耳をかす余裕をもたせるものはないのである。このような事態から生まれる諸結果は、将来にとって不吉で危険である。」

この記述など、「9.11」以降のアメリカそのものではないだろうか。

しかし同時にトックビルは、アメリカ社会が備えている「多数の専制」を抑制する仕組みについてもつぶさに観察している。それは具体的には、タウンなどの地域自治体であり、司法制度であり、習俗とりわけ宗教などである。これらの専制抑制装置は、今のアメリカにおいてどのようなことになっているのであろうか。

「多数の専制」からいかに覚醒し平静に戻っていくことができるのか。今のアメリカに対する僕の関心は、この1点に尽きる。

(なお『アメリカのデモクラシー』は、中公バックス版『世界の名著40』所収の岩永健吉郎訳を参照しました。)