「市場の発見」から「市場の創造」へ

わたなべ ひろし

自分の仕事柄、マーケティング、あるいはマーケティングリサーチという言葉を、日常頻繁に聞いたり使ったりしている。「市場調査」とでも訳すのだろうか。しかし、まぁ大多数のサラリーマンなら日本語などに訳す必要などないくらい、一般化している言葉だろう。マーケティングというと、ちょっと前までは「市場(マーケット)の発見をその目的とする行為」として、広く認知されていた気がする。ニーズはあるがまだまだ未開拓の潜在的市場を探し出し、そのニーズに見合った商品やサービスを開発すれば、当然ヒット間違いなしというわけだ。

しかし近年は、このような「市場の発見」から一歩進んで(?)、「市場の創造を目的とした行為」とでもいったニュアンスに、マーケティングの持つ意味合いが変わってきた。例えば社団法人日本マーケティング協会などは、その綱領の中でマーケティングを「市場の創造」と明確に定義している。つまり未開拓の潜在的市場などといったものはもはや存在しない、あるいはそんなあるのか無いのか確証性の低いものに頼るのではなく、自分たちで市場やニーズを創り出し、そこで自分たちの商品やサービスを作ったり売ったりしていこうというのである。自分たちで「創った」市場やニーズで、自分たちが作ったものを売るのであるから、こんな確かなことはない。

その結果どういうことが起こったかというと、あらゆる階層、あらゆる年代の24時間、365日、人生すべてが、様々な局面に細分化され、市場、つまり自分たちの作った商品やサービスを買わせる(売るではない!)対象として、常に意識化されていくことになる。そして、伝統、地域性、モラル、愛情、歴史、公共性等々といった、誰かが恣意的に作ったのではなく結果としてひとが社会や共同体を形成していく上で必要でありその目的で長い時間をかけて鍛え上げられ残ってきたこれらのものでさえ、「市場創出」のための一要素として意識され、有効とあらば動員されていく。

かくて少なくともビジネスの世界においては、偶然性や結果論が入る余地は次第に無くなっていき、人間存在のすみずみにわたってその全てが、「顧客」として操作すべき管理対象となるのである。そして最近痛感するのは、この「市場の発見」から「市場の創造」へというマーケティングの指向性が、ビジネスの世界だけではなく、政治や軍事にも適応されてきているということである。例えばそれは米国のイラク侵攻にいたるプロセスをみれば、よくわかることであろう。「市場のニーズが無ければ自分たちで創り出せ!」である。(更に、先日の当コラムにおける岩木さんの文章を読んで僕が感じたことも、戦争行為におけるマーケティング感覚とでもいうものであった。)

さて問題はここからである。現在世界中を席巻している、ネオリベラリズと呼ばれる潮流の本質は「市場至上主義」とでもいうもので、僕なりに解釈すれば、それは人間の恣意性(社会主義的に言えば計画性)にではなく、「神の手」たる「市場」に最終的な判断を委ねるということである。ここにも「市場(マーケット)」が出てくる。先の創出対象の「市場」が「小文字の市場」であるならば、この「神の手」である「市場」は「大文字の市場」とでも言えようか。各企業や大国がありとあらゆるものを利用し、動員して、自分たちに都合のよい「市場」を創出し、すみずみにわたって管理し、自分たちの意のままになるようにしても、それを委ねる先が「神の手」という人知による管理対象の対極にあるこれまた「市場」だというのだ。

こうして人間の歴史は、偶然性や不可視性の跋扈する時代へと、振り出しにもどることになる。