池袋50年-万物は流転する-

中西 治

私が大阪の大学を卒業して初めて東京で住むようになったのは1956(昭和31)年4月のことであった。所は北区十条のアパートの3畳の一室。炊事場とトイレは共用。北向きの一日中日のあたらない寒い部屋であった。部屋代は月3000円。月給は初任給8500円であった。

赤羽線の十条から池袋に出、池袋で山手線に乗り換えて新橋の通信社に通っていた。ロシア語のモスクワ放送を聞き、それを日本語のニュースにして日本の新聞社や放送局などに提供する仕事であった。もちろん、最初はそのような難しいことはできない。先輩が聞き取ってタイプに打ったものを翻訳させてもらうとか、原稿をガリ版に切って印刷し、配達するとかであった。

勤務時間は正午から翌日の正午までの24時間。東京とモスクワのあいだに6時間の時差があったのでモスクワでは朝の6時から翌日の朝の6時までであった。それを3回繰り返して1日の休みであった。

たまには池袋の地に立つことがあった。当時はもはや戦後ではないと言われ始めたときであったが、池袋駅周辺はまだ戦後であった。その後、江戸川区の小岩、千葉県船橋市の高根台、横浜の洋光台と居を移し、池袋で下車し、町を歩くことは絶えてなかった。

昨日と今日、この地の立教大学で日本平和学会が開かれたので久しぶりに池袋の地に立った。かつて一度、立教大学を訪れていたので、駅を出れば、すぐ見つけられると高を括っていたが、まず、駅の構内が広く、どの出口を出れば良いのか分からない。まあいいや、どこへ出てもすぐ分かるさと思って地上に出たが、大学に辿り着くのが一苦労であった。大学もずいぶん変わっていた。改めて50年近くの歳月の経過とその間の大きな変化に感じいった。

万物は流転するとはギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言であるが、まさにすべては変化する。平和学会では日本はいまや戦争前夜にあるとして季刊雑誌『前夜』を発刊して警鐘を鳴らす報告を聞いたし、懇親会では戦争前夜ではなく、夜明け前にしようとの挨拶も聞かれた。

戦後60年。人間も環境も変わった。この変化にどのように対応するのか。このことを改めて考えさせられる2日間であった。