「戦後60年」の諸問題の解決に向けて

今井 康英

日本では、今年は昭和20年(1945)の「終戦」から60年目である。 8月15日は、今も「終戦記念日」と称されている。 今でも、あの日をこう言い続けている国は日本だけではないか? なぜ無条件降伏による「敗戦の日」、「戦争に負けた日」を誤魔化すのか。 ここに戦後60年を経ても、なお「戦争責任」その他の諸問題を 解決できないでいる根本原因の一つがあると私は思う。 日本に限らないだろうが、国は国民に平気でウソをつくものである。 国民は国の言い分を正面(まとも)に受け取ってはならない。 小泉総理の靖国神社参拝などは、自粛が当り前である。 どうしても参拝したいなら、総理の職を辞してから行くべきである。

実は昨年になって、やっと父の軍歴など正確に分かったことがある。 平成16年6月21日付、栃木県保健福祉部高齢対策課長の証明による 「履歴書」(第十七号書式、A4版1枚)によると、 ([ ]内は、「身上申告書」等の記載による。 【 】内は、極秘 ソ連邦内務省捕虜並びに抑留者業務総局「登録文書」 の記載による。原本はロシア語、日本語訳による。コピーはA4版で5枚、 2004年7月20日付で「厚生労働省社会・援護局業務課長」が 「この写は当課保管資料の原本と相違ない」と証明している。)

父は、大正12年(1923)12月18日生まれの長男であったが、 召集により、 昭和19年(1944)11月20日、宇都宮東部36部隊に入隊。

昭和20年(1945)6月、銭花店より満洲に入り、 第63師団所属の独立歩兵第78大隊第2中隊に配属になった。 [秘匿名、通称、陣第2993部隊、小田大隊関口中隊、 部隊長は小田二郎少佐] 同年8月、奉天にて武装解除。
【同年8月14日、奉天にて「自発的に投降」、捕虜となる】
同年12月、ソ連「ムリガリウムサイ」収容所入所。
【同年11月12日、第348収容所に到着】

昭和22年(1947)8月、ソ連「レンゲル」収容所に移動。
【同年7月1日、調査票記入、本人自筆サインあり。漢字】

昭和23年(1948)7月、ソ連「053」収容所に移動。[ナホトカ地区内か]

昭和24年(1949)9月19日、ナホトカへ移動。
【同年9月22日、第380収容所への引渡し】
【同日、登録文書に「本文書は帰還にともない終了」と記載】
同年9月27日、ナホトカ出港。
[同年9月30日、舞鶴上陸。船名は永徳丸]
同年10月5日、復員。

昭和41年(1966)8月28日、死亡。

平成16年(2004)7月7日、私は遺族として総務省所管の独立行政法人 「平和祈念事業特別基金」に対して「恩給欠格者書状等贈呈事業」 による「請求書」(恩給欠格者死亡者用)を提出し、受け付けられた。 同年8月25日、九段社会教育会館でのビクトル・カルポフ氏講演会に参加。 上記の収容所名や収容所番号について質問、不満足ながら回答を得た。 同年10月25日、内閣総理大臣名の書状が「ペリカン便」で届けられた。 その書状には、こう記されていた。

故今井康祐殿
あなたの先の大戦に
おける旧軍人軍属と
しての御労苦に対し
衷心より慰労します
平成十六年十月一日
内閣総理大臣 小泉純一郎(書状は国立印刷局製造のものである。)

召集令状も紙切れ1枚だったが、 その御労苦に対する衷心の慰労も紙切れ1枚である。 ソ連抑留時の未払い賃金問題も、未だに解決していない。 当時の生存者は既に80歳を越えているというのに。 父の戦友である全国抑留者補償協議会の寺内良雄会長は、 「国は我々が皆、死ぬのを待っている」と憤慨している。

ある日、父の遺品のなかに1枚の写真を発見した。 「19.11.20」と日付の書き込みがあるその写真には、 出征兵士の父を中心に、左に父の母(私の祖母)、 その周りに今では名前もわからない人達が9人ほど。 「祝 入営」と書かれた幟も見える。

父の自筆で解説が2枚、付されていた。 1枚には、

大平洋戦争酣の秋
醜の御楯と出征く我は・・・・その門出の日
昭和19年11月20日、東部36部隊に入隊せんとす
宮市東塙田町162の自宅前にて 康祐21才

もう1枚には、

この写真は
康祐と共に
北支-満洲-
シベリア鉄道で
遠く中央アジヤ
まで行って帰りし也

私もこの写真と共に、 父の足跡を辿ってみたいと念願している。 父がご迷惑をかけたかもしれない人々にお詫びをしつつ、 またお世話になったかもしれない人々にお礼を言いつつ、 この国に二度とあのような戦争を起こさせまいと誓いながら。 同時に、平和憲法の理念を共有して頂くために努力したい。 私も毎日、世界平和と人類の幸福を祈り続けている。

2005年6月8日

追記

本稿について、若干の補足を記しておきます。

(1)寺内良雄会長は、宇都宮市在住です。 2004年7月29日、御自宅を訪問し、面談して頂きました。 父は第2中隊所属でしたが、氏は戦友とはいえ第3中隊所属でした。 「写真」を見ていただきましたが、所属中隊が異なると面識がない こともあり、見覚えがない(思い出せない)とのことでした。 コラムに書いた言葉は、その時私が直に伺った氏の言葉です。 氏が栃木県立図書館に部隊史『陣』を寄贈したことを教えられ、 この書によって父の足跡もほぼ確認できました。 また同年9月18日に開催された国本平和学習会の 創立記念第1回学習会に講師として出席して頂きました。 ここに銘記して、深く感謝の意を表します。

(2)カルポフ講演会の際、通訳を務められた浜野道博氏にも お世話になりました。収容所の所在確認のため、 江口十四一氏に照会して頂き、その御縁で直接、江口氏からも 貴重な資料を提供して頂くことが出来ました。 ここに銘記して、両氏の御厚情に感謝申し上げます。

2005年6月9日