「キングダム・オブ・ヘブン」を観て

玉井 秀樹

ハリウッドではここのところいわゆる歴史大作が発表されていますが、リドリー・スコット監督が十字軍の時代のエルサレムを描いた「キングダム・オブ・ヘブン」に興趣をそそられ、先日、久しぶりに劇場で映画を観てきました。先の大作「グラディエイター」の成功によって、いまやハリウッドの巨匠の一人 となったリドリー・スコットが、十字軍をどう評価するのかに大きな関心がありました。

映画の冒頭では、オーランド・ブルーム扮する主人公・バリアンは、閉塞感漂うフランスの寒村に暮らしており、子を亡くし、さらに亡くした子を追っ て妻が自殺をするという悲劇の中にいることが描かれます。村の聖職者は彼の悲しみに追い打ちをかけるように、教会が許していない「自殺」をはかった妻は地 獄に堕ちると言い募ります。妻の魂の救済を求め悩む、彼の目にとまったのはその坊主の首にかかる小さな十字架でした。それは愛する妻の首に掛かっていたも のでした。つまり、自殺の罪を言い募るその坊主は墓泥棒であったのです。それを知ったバリアンは怒り心頭に発し、彼を殺してしまいます。

この時、実はエルサレム王国に仕える十字軍の騎士・ゴットフリーが、バリアンに対して実の親子の名乗りをあげエルサレムへの同行を求めていたので すが、バリアンはこれを拒否していたのでした。しかし、自らも聖職者殺しの「罪人」となった彼は、父の後を追いエルサレムへ向かうことになります。

父・ゴットフリーは、バリアンの追手に彼の引き渡しを拒否したため、激しい戦闘となり重傷を負ってしまいます。そして、エルサレムに立つ寸前に、騎士としての使命を我が子に託して絶命します。

その際の、騎士の誓い(「恐れず、敵に立ち向かえ」「勇気を示せ」「死を恐れず、真実を語れ」「弱者を守り、正義に生きよ」)が作品のモチーフと もなっているわけですが、この理念を共有できる同志は、十字軍(本作品ではテンプル騎士団が悪役に配されていますが)の騎士たちよりも、むしろサラディン の軍勢であると描かれます。十字軍が、当時のアラブ世界(ビザンティンも含んでのことでしたが)にあって、暴虐な侵略者でしかなかったという見方がはっき りと描かれています。

映画の主たる舞台となるエルサレムの国王は、信仰の自由を認める「現実主義者」として描かれ、「聖地死守」の宗教的理念を唱えるテンプル騎士団た ちが見せる異教徒への「非人間性」が対比されます。また、クライマックスとなるエルサレムの攻防で、エルサレムの司祭が命乞いをするために偽装改宗をすす めるシーンが挿入されるなど、聖職者の語る神への信仰がいかに偽善に満ちたものであるかが描かれます。

一方、何よりも妻の魂の救済を求めてエルサレムに入ったバリアンでしたが、入城後まっすぐに向かった「磔の丘」では神の赦しの声を聞くことができ ず、生きる目的を得ることができないままだった彼にアドバイスを与えたのは父の同志であった騎士にして聖職者のホスピタラーでした。信仰は言葉ではなく、 善の行いにあると語るホスピタラーの信念にふれたバリアンは「騎士」としてエルサレムの王を、ひいては民を守ることに使命を見出すことになります。

ハリウッド作品(米国映画)らしい往時をイメージさせる衣装やセット、戦闘シーンなどエンタテインメントとしての見所もあり、これもハリウッドら しさである「深みのなさ」が気になる人もいるかもしれませんが、バランスのとれた十字軍理解の一助となる良い作品であったと思います。

私としては、作品のメッセージを「生命を守ることこそが正義であり、それを認めぬ”神”など必要ない」と理解しました。作品中ではバリア ン率いるエルサレム守備軍の多くが命を落としており、正義を貫くための犠牲という矛盾は残されたままなのですが・・・ 暴力に対峙する非暴力はいかにして 可能なのか、長年の宿題に思いが至りました。