我が土、我が民(その1)―母なる河 澮河(その1)

王 元

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上の写真は1999年9月に安徽省の故郷に帰省した折に撮ったものです。時間は午前9時、雲ひとつない晴天でありました。のどかな風景は、欧州の田舎のようにも見えるでしょう。河の両岸には農作物の大豆、トウモロコシ、サツマイモなどが青々としています。しだれ柳が風に揺れ、なんともいえない情景です。その柳には蝉が元気に鳴いていて、空気の中には幼い頃から親しんだ母なる河の息吹が感じられました。

豊饒なる河で、魚などの水産物が多く生息していました。農民たちはその河からいろいろな恵みを採り、自由市場にて非常に安い値段で売りさばいていました。特に今は高くなっている、川海老やスッポンなどは、故郷の農民たちは自ら食べようとしないものでした。そこで、空に飛んでいるものは飛行機以外、地上に足が着いているものは机以外は皆食す、という食は広東に在りとまでいわれる広東人の父はいつも、驚くほどの安値でそれら珍味を買占め、我々兄弟に食べさせようと懸命でした。無論、夏になると、我々兄弟もその食材採りに借り出されました。夏の夜、懐中電灯に照らされて動きが鈍くなる田ウナギ、蛙等いつも食べきれないほど収穫しました。それから中華蝉の幼虫(日本の蝉より3,4倍の大きなもの)を油で揚げたものは本当にこたえられませんでした。

私はいつもこの河で遊んでいました。夏は魚釣りや遊泳。潜ることも好きでよく長い時間潜っては人を驚かせました。河の中は石が多くその石につかま り素早く移動していったのです。あるとき、川岸の斜面を利用し、つるつるした泥の上を裸で滑っていた。悪ガキと一緒だと、ますます迫力を増し、スピードが上がりました。そのときそこに何か異物があるのに気付かず勢いよくすべると臀部に激しい痛みが走りました。硬い石のようなものが突き刺さったのです。しかしそのことは「革命」に追われる親には言えず、自分で必死に治しました。その傷は今も残っています。こんなことは日常茶飯事でした。

以前は大きな河でした。船が1年中渡り運河として使われていたのです。ところが今は降雨量が減り、水量も70年代の四分の一になってしまいました。船どころか、冬になると流れさえ止まり、沼のようになるそうです。

しかも80年代、この河の上流の河南省永城県で製紙工場ができ、その排水が流され汚染されてしまいました。水は黒くなり、水草さえ育たなくなったのです。残念なことです。これも高度経済成長の恩恵なのでしょうか。今はだんだん奇麗になり、魚も住み着き(まだ食べることはないですが)、元の河に戻りつつあるようです。

実はこの河には三国時代からの歴史があります。その話は次回に。