癒しの国ラオス:ラオスの開発課題とその展望

掛川 三千代

筆者が、在ラオス日本国大使館に、経済と開発問題担当の専門調査員として勤務して、早くも2年10ヶ月が過ぎ、あと2ヶ月余りの契約期間を残すばかりとなった。地球宇宙平和研究所から、「定期的なコラムの投稿者になりませんか」と親切に声をかけて頂いたこともあり、この機会に、日本では殆ど知られていないラオス人民民主共和国のこと及び当地で得た経験を、エッセイー風に書き、ラオスのことを、より多くの人に知ってもらえることを期待したい。

さて、「ラオス」と聞いて、どこにある国で、どのような歴史を有し、どのような人々が住んでいるか等をすぐに思い出せる人は非常に少ないであろう。実際、赴任前、米国人の友人に「ラオスに行くことになった。」と言うと、「ラゴス?アフリカに行くの。」という返事が何回か返ってきた。また、ラオスの隣国タイの首都バンコクのある有名ホテルで、「どこから来たのですか?」と聞かれ、「ビエンチャンです。」と言うと、「ベトナム?」と回答する従業員がいた。「いいえ。隣の国の首都、ビエンチャンです。」と言うと、「え、ビエンチャン?イサン地方(タイ東北地方)の北の方ね。」と言われる。バンコクからすれば、タイの東北地方は、かなりの田舎であり、その北にあるビエンチャンは、隣国ラオスの首都であっても、一層田舎であり、イメージはなかなか浮かばないらしい。このような反応が返ってきた時は、「隣国の首都ぐらいは知っていて欲しいなあ。」と思うことがよくあった。でも、実際、ラオスにとって、タイは非常に重要な経済パートナーであるが、タイにとっては、「ラオスは、タイの一地方」ぐらいにしか思われていないのであろう。詳細は、徐々に述べることにしたい。

kakegawa4.jpg
Map of the Lao PDR

1.国の概要

ラオスは、周囲を中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーに囲まれた内陸国である。また、国土の約8割が山岳地帯であり、肥沃なメコン河流域があるとは言え、耕地に適した土地は決して多くはない。人口は約560万人であるが、国土は24万k㎡(本州の面積に相当)であり、人口密度は23人/k㎡と極めて低い。現在、首都ビエンチャンの人口は約69万人と言われが、その他では旧都ルアンパバーン、南部の中心地パクセーを除いては、過疎に近い状態である。国は多民族国家であり、低地ラオ族が約60%を占め、その他は49の少数民族がいると政府発表では言われているが、民族の分類により、100を超える少数民族がいるとも言われている。また、国民の多くは、小乗仏教を信仰している。

ラオスの最初の統一王朝は、1353年のランサーン王国(百万の象、即ち多くの象という意味)で、首都はシエントーン(現在のルアンパバーン)に置かれた。その後、ビルマの侵攻を避けるため、1560年にビエンチャンに遷都した。18世紀初頭には、王位継承を巡る内戦等から、ビエンチャン、ルアンパバーン、チャンパサックの3国に分裂し、1779年にはシャム(現在のタイ)の属国となった。1893年には、仏シャム条約により、フランスの植民地となり、1899年には仏領インドシナ連邦に編入された。第二次世界大戦の後期には、ラオス南部に於いて日本軍の侵攻を受けた。第二次世界大戦が終了すると同時に、ラオスは植民地政策より解放されたかのように見えたが、1949年、仏ラオス協定により、フランス連合内のラオス王国となった。その後、1953年には、仏ラオス友好条約により、完全独立を達成した。しかし、ベトナム戦争の影響を受け、共産主義勢力(左派)と反共産主義勢力(右派及び中立派)の間で内戦が繰り返された。また、ベトナム戦争中の軍需物資供給路であったホーチミン・トレールの一部がラオス南部を通過していたこともあり、1964年から75年までに、米軍により約300万トンの爆弾を受けた(当時の人口は300万人)と言われている。また、そのうち約3割が不発弾として、今なお、ラオスの東部、南東部に多く残留しており、開発の障害となっている。

最終的に、1975年4月、サイゴンが陥落、ベトナムの統一が達成された。ラオスにおいても、共産主義勢力が革命により権力を握り、同年12月に王制が廃止され、ラオス人民民主共和国が成立した。75年から80年代初頭にかけ、多くのラオス人が、政治難民として国外に逃亡した。最もよく知られているのは、モン族である。山岳地帯に住むモン族は、ベトナム戦争中、米軍の手先となって共産主義勢力と戦わさせられた。また、王国派であった人々も、革命と同時に、フランス、米国、豪州、日本等に逃亡している。現在、米国に居住するラオス人は約50万人とも言われており、ウィスコンシン州、ミネソタ州、カリフォルニア州等に小さな「ラオス・コミュニティ」があるそうである。

本来、国家設立と同時に、憲法の起草がされるのが通常であるが、ラオスの場合は、人民革命党の決裁により全てが決まり統治されてきた。憲法が制定されたのは革命後16年も後の1991年であり、この16年間、憲法無しで国を治めてきたのである。

上記の通り、内陸国という地理的条件の中で、ビルマの侵攻を受けたり、シャム(タイ)に攻められたり、また、フランスの植民地支配下に置かれたり、日本の侵攻を受けたり、更には、ベトナム戦争中は、米軍と正式に戦争はしていなかったにも拘らず、ホーチンミン・トレールの一部が、ラオスを通過していた為、米軍により爆撃を受けた。ラオスの歴史を振り返ると、波乱万丈であり、このような中を、人々は賢明に生き延びてきた。

政治的には、ベトナムの後を継いで、社会主義政権となったラオスは、本格的な社会主義路線を敷いたかのように見えたが、個人主義の強いラオス人の間では、集団農業経営が成り立たず、1979年には同経営を中止している。計画経済の行き詰まりを打破する為、1986年に、「新経済システム」を導入、実質的な市場経済、開放政策の実施を開始した。

次回に続く。

kakegawa1-2.jpg
Tat Luang-front

kakegawa2-2.jpg
Hmong women at Thongsi village