我が土、我が民(その2)―母なる河 澮河(その2)

王 元

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新しい三水大橋

我が故郷安徽(省)淮北(市)臨渙(鎮)は古代の名称で「銍」といわれていました。春秋時代、宋国の銍邑となり、秦の時代は沛地方の銍県となりました。「銍」とは麦を刈る鎌という意味です。つまりこの一帯は中国の麦の蔵ということでした。これは今でも変 わりません。

三国曹魏の時代、「建安七子」の一人陳琳は魏の文帝(曹丕)あての書の中で 「渙水は紋が五色と成り、両岸に才人が多出し、その水勢は曲折で深 秀、画本と為ること堪るため、その名を繪と改める」と提議しました。今は「澮」だが、元々は糸偏の「繪」であったのです。しかし、時代によってそれ以前の 渙水と呼ばれたり、一定ではありませんでした。そもそも現代の名称、臨渙という名は南北朝の梁武帝(蕭衍)のとき、渙水に面しているので臨渙郡としたとい うことです。

この地域では古代から麦と同じように有名なのは“大盗”です。

日本の「万世一系」に対し、中国は「易姓革命」つまり、誰でも王となれる、としばしば指摘されます。中国、いわゆる四千年の歴史の中で主なる王朝 は夏商周秦漢晋隋唐宋元明清の12。中でも200年以上ながく維持されてきた大きな王朝は夏商周漢唐宋元明清の九つ。この九つの中で商漢宋明(延べ 1500年以上)の四つは私の故郷の周辺(半径140km)から誕生した王朝であり、特に漢と明は中国史上二つの農民蜂起によりできた王朝です。

そもそも中国史上初の農民蜂起は澮河の下流にある大沢郷で起きました。司馬遷『史記・陳渉世家』には以下のように記しています。

陽城の人陳勝、字は渉。少き時人と傭耕す。耕を輟めて隴上に之き、悵然たること久しうして曰はく、「苟くも富貴とならば、相ひ忘ること無からん。」 と。傭者笑ひて曰はく、「若傭耕を為す、何ぞ富貴とならんや。」と。勝大息して曰はく、「ああ、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。」と。

是に至りて、呉広と兵を蘄に起こす。時に閭左を發して、漁陽を戍らしめ、勝・広屯長と為る。会大雨して道通ぜず。乃ち徒属を召して曰は く、「公等期を失し、法斬に当たる。壮士死せずんば則ち已む、死せば則ち大名を挙げんのみ。王侯将相、寧くんぞ種有らんや。」と。衆皆之に従ふ。

当時の大沢郷のあたりは澮河など淮河の五つの支流が網の目のように走っている湿地帯で、雨が降るとたちまち道が通じなくなった。こうして大沢郷に 蜂起した農民軍は120km西進して我が故郷「銍」等五県を陥れ、さらに西130kmの陳州に向かった。陳勝は陳州で王と称し、国号を「張楚」と名づけま した。中国史上初めて身分も何もない日雇い農民が王となった瞬間です。

「王侯将相寧ぞ種有らんや」。直訳では「王、貴族、将軍、大臣であろうと我々農民と違いなどないのだ!」という意味です。現代語ではおそらく、「人間誰も皆同じである!」と訳して良いでしょう。こんな言葉が2000年以上前に叫ばれているのです。

陳勝の農民軍はわずか一年で破綻しましたが、この大沢郷蜂起が秦末大乱の先駆けとなります。これを機に挙兵した劉邦は,秦を倒した後、項 羽を滅ぼして漢を建国することになるのです。ところが同じ沛の中陽里(我が故郷「銍」から北へ100km)の出身であるこの劉邦も当時はまだ“無頼漢”で ありました。その話は次回に。