エッセイ 63 独裁について

木村 英亮

「ロシアで大衆独裁が発生し、ついでイタリアに波及したとき、私たちはたがいにいいあいました。『後進国だから大衆独裁が起きるのだ。私たちにもいろいろ問題はあるが、ここでは独裁は起こりえないから、その点幸運ですね』と。ところが、独裁が登場し、しかも他のどの国よりも悪い独裁でした」(カール・ヘルマン教授のことば、マイヤー『彼らは自由だと思っていた』、未来社、1983,238ページ)。

ドイツの経験にもかかわらず、独裁は発展途上国のものであって、「先進国」には起こらないと思っている人が多い。これは、ロストウらの近代化論の影響も大きい。1960年ごろ日本に紹介され、「ケネディ・ライシャワー路線」の下でもてはやされた近代化論では、現代史を工業化として、すなわち発展を工業化のみを指標としてとらえ、それには、アメリカや日本のような「民主主義の道」の他に「共産主義の道」、「ファシズムの道」という「独裁」による道もありうるとした。

マルクスも生産力を社会発展の土台と考えた。しかし、いまはグローバリゼーションによって世界は一体化している。マルクスの時代に比べ世界の工業生産は数十倍、数百倍になっているのである。にもかかわらず、世界の国を別々に工業生産を基準として序列化し、知らず知らずのうちに工業の発展しない国を政治も文化も劣るとみて、差別したり指導しようとしたりしているのではないだろうか。

しかし、「南」の国民から見ると、欧米や日本など「北」の国の民主主義は、まったくあやしいものであろう。すでに新しい型の独裁の下にあるのかも知れないし、将来古い型の独裁に陥る危険からも免れていないと警戒すべきであろう。