「外交カードとしての歴史認識」という認識

わたなべ ひろし

今回の中国や韓国の「反日行動」に対する日本の報道を見ていて、僕が最も引っ掛かったのは、「外交カードとしての歴史認識」というような日本側の言い方である。

例えば町村外相の次のような言葉がその典型。

「中国、韓国の外相に『日本の戦後の活動をみれば、いかに戦前についての深い反省をしているのかがよく分かるでしょ』と話したが、なかなか『分かった』とは言わない。(歴史認識問題が)カードだから彼らはそう簡単に離さない」(毎日新聞 2005年5月27日 東京朝刊)

僕は中国や韓国の専門家はないので、彼らが自分達の言い分を正当化する目的だけで、外交上のカードとして「歴史認識」を持ち出してきているのかはよく分からない(多分違うと思うけれども)。しかし「外交カードとしての歴史認識」という考え方は、間違いなく日本の保守勢力やナショナリズムを宣揚する勢力には、つまり「何度土下座すれば気が済むんだ!」と声高に叫んでいる人たちには、とても都合の良い問題の立て方であるだろう。

以前、このコラムでネコクマさんが「内向きの理屈で強引に権力で押し切るドメスティックな手法は、もはや東アジアの問題解決には有効でない」ということを述べていたが、「外交カードとしての歴史認識」という日本側の認識も、全く同じ構図から出てきている言辞なのである。

僕は世界史の「トレンド」というものを、多様化(個人化)と普遍的価値の両方が、人類全体へと浸透していく過程として捉えている。つまり個々人の具体的な人生と人類全体の幸福が共存できるような一つの共同体として、人類社会は一体化していくということだ。昨今のグローバリゼーションなども、このトレンドの一局面に過ぎないと思っている。

世界史の方向性をそう捉えた上で、それでは「歴史認識」の問題をどう考えればよいのであろうか。それは日本の帝国主義による植民地支配という歴史的事実に対する被植民地の側からの、「人間としての尊厳の認知・回復を求めた訴え」として受けとめるべきであると僕は考えている。それは極めて「哲学的」というか、「倫理的」というか、まさに「人間的」な問題なのであり、ゼニ・カネ欲しさの(当然このことも日本の受けとめるべき責任として大切なことである)打算的行為としてのみ了解すべき問題ではないのだ。

この問題に正解やマニュアルなどは無いのである。これは戦争によって多くの生命を犠牲にしてきた人類にとっての、いわば加害者と被害者との開かれた関係を形成するという歴史的事業なのである。100年や150年くらい時間がかかってもしょうがない種類の課題なのだ。

発達心理学の岡本夏木さんは、自著で「誠実なることば」ということについて述べている。岡本さんの言う「誠実なることば」とは、「他者に向けて語りかけながら、そのことばが、より強く本人自身に語りかけることば」であるという。例えば「子供のために、教え子のために、友のために、病者のためにと他者に向けて懸命にしている行為(言葉)が、どれだけ自分自身への励ましとなり、生き甲斐となっていることか。誠実なる人間関係とはそういう相互性によってささえられて」いるのであり、そして「自分が相手に向けたことばが、その相手を通して自分に投げ返されてくるとき、それはより深い新たな真実をはらんで返ってくるという点」が大切であると指摘している。

他者に対して発した自分の言葉は、なによりも自分自身にこそより問い返されるべきであるという、このことの重みを何も考えていないカラッポな言動の累積が、現在の東アジアにおける日本の孤立化を招いているのである。

今必要なことは、中国や韓国の人たちの問いかけに対する、私たちの側の「誠実なることば」を介した応答なのである。