我が土、我が民(その3)―母なる河 澮河(その3)

王 元

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山西人会館

秦の始皇帝が中国を統一した紀元前221年、中国の人口は約2千万人であったといわれています。中国で最初に全国的に戸籍が作られたのは、前漢の 末期、平帝の元始2年(紀元2年)で、その当時の全国の人口は59,594,978人でありました。隋の戸籍登録人口は46,019,956人(609 年)。唐の戸籍登録人口は玄宗天宝14年に52,919,309人(757年)であり、いずれも前漢末の数字には及びません。中国の戸籍登録人口が前漢末 の記録を追い抜くのは、実に約1000年後の北宋まで待たねばなりませんでした。ちなみに、一億人の大台に乗ったのは清朝の康熙帝(1661-1722 年)の統治の末年とされています。

劉邦の話は次のシリーズにとっておくことにして、今回は澮河の話を続けたいと思います。臨渙は今人口一万人足らずの小さな古鎮です。人口だけで見ても、おそらく漢代からそれほど大きな変化はありません。漢代以来、中国の人口は20倍以上増加したことから見れば、古城臨渙の停滞ぶりが分か ります。行政区画から見る場合は、秦のとき県に制定され、魏晋南北朝時代に郡へと昇格されました。

秦、漢、魏晋三代は故郷臨渙にとって、最も栄えた時期かもしれません。確かに漢代にこの沛(漢代に「沛国」となった)は劉邦の故郷であ り、魏晋のとき南の譙(西晋のとき「譙国」となる)は曹操の故郷であって、中間にある銍は見落とされていました。しかし全地区の繁栄につれて、それなりに 繁栄ぶりを見せてくれました。シリーズ②陳琳上魏文帝(曹丕)書に見られるようなことはその証拠でしょう。

経済の面から見れば、臨渙は春秋時代に市場が出来、物資交換の場となりました。秦漢の時代は更に進化し売店のようなものが出来てマーケットとして機能し始めたのです。隋唐の時代、地方の貿易中心地としての役割を果たしていました。当時臨渙にはそのような商店街の路地が八つも網目状に入り組んでいました。元明清時代は昔ほどではありませんが、依然として河南、安徽、江蘇三省の重要な商業地でした。しかし、この長い間、臨渙の商売人でいえば本省人より、外省人のほうが多かったでのす。そしてその中では特に山西、山東、と河南人が多くいました。という理由から臨渙には山西人会館と福建人会館があります。

隋の時代、県に降格され、譙郡(亳州)に属することになりました。臨渙の衰落が決定的になったのは元世祖忽必烈(フビライ 蒙古帝国第6代大汗にして元朝初代皇帝)のときでした。至元2年(1295年)県より下位の「郷」のままで鳳陽府(後の明太祖朱元璋の故郷)の管轄下になりました。清乾隆55年(1790年)には少し昇格され、「分州」となって、宿州の管轄下に戻りました。宣統(溥儀)3年(1911年)、また「鎮」に降 格され、今日に至ります。

この理由はいろいろあるが、もっとも大きなものは二つ挙げられます。

一つは中華文明の発展性の方向によるものです。中華文明の発展性の方向には三つの時期が見られます。一つ目は西から東へ、つまり河川(黄 河と長江)に沿っての東進。三つ目は北から南へ、つまり大運河と海の道を使っての南下。前者は夏から秦まで、後者は隋以降であります。それから二つ目は漢から唐まで、つまりこの二つの時期が入れ替わるという過渡期です。澮河の流れは北西から東南へ。長い間、淮河の支流である渦河、頴河と共同で黄河流域(中原)と淮河流域を結びつく動脈でした。故郷の繁栄期は全体的に見れば、漢から唐までの過渡期と重なる。この時期が過ぎると中華文明の発展の中心が、他の地域へと移転してしまったので、故郷繁栄から衰落へと転落したのです。

それからもう一つ大きな原因は「黄河改道」にあります。これについては次回にいたしましょう。