宇都宮空襲60周年について

今井 康英

今回は、順番から言えば「環境問題」について述べるべきですが、 このカテゴリーで投稿したブログの記事はあまり多くないので、 他日に書くことにして、上記のテーマについて述べます。 このテーマに関連した記事は、「反戦平和」に掲載しています。

1945年7月12日の宇都宮空襲により、620人以上の人命が失われ、 市街地の大半が焼失した。今年は60周年である。 宇都宮市では、この7月12日は「宇都宮市平和の日」である。 この日から「終戦記念日」の8月15日まで、「宇都宮市平和月間」である。 (この間のイベントなどは「日程情報」に掲載しています。)

この日の地元紙「下野新聞」の1面トップは、「宇都宮空襲 きょう60年」 平和を願う3人の記憶が掲載された。 「無差別爆撃 市民が標的に」 中島飛行機宇都宮製作所の係長だった矢口長さん(86) 空襲の翌日、工場へ行ったが、ほとんど被害がなかった。 街が標的にされた無差別攻撃だった。 犠牲になったのは、軍の施設ではなく市民。 「戦争に正義なんてない。だから戦争はいけないんですよ」

「新しい家族 一度に失う」 群馬県桐生市から宇都宮の酒店に嫁いだ萩山光子さん(81) 義父に「先に逃げろ」と言われた。 夫が「母だけでも連れて行こう」と戻ろうとしたが、 火の手が強く、断念せざるを得なかった。 空襲の翌朝、焼けただれた自宅に戻った。 田川に逃げ込んだ義姉とめいの無事を確認。 しかし残り4人の行方は不明だった。探し始めて二日後。 焼け果てた土蔵でひと塊となった父母、義兄、おいの焼死体を発見。 隣の母屋からは灰と泥にまみれた花嫁衣裳も。 人生が暗転した日の光景が脳裏から離れない。 「何もかも悪夢だった」

「機銃掃射 新たな脅威」 簗瀬国民学校の周辺で焼け跡の片付けをした手塚節司さん(73) 空襲から数日後。焼け残った建物は石蔵ぐらいだった。 バリンバリンバリン。その時、一機の戦闘機が突然、 爆音とともに校舎上空に現れた。トチノキの大木に身を隠した。 「目の前わずか1メートル先を30センチ間隔で、 弾が砂煙を上げて地面に突き刺さったんだ。 パイロットの顔まで見えたけど、武器が無くて何もできなかった」 同様に片付けをしていた下野中学(現作新学院)の生徒5人が 機銃掃射の犠牲になった。 「ひどいもんだ。いかに人に重い傷を負わせるかを、人が考えるんだから」

この日の社説(「論説」)は、「平和築くため行動が必要」 不戦の誓いを新たにすることは、旧日本軍に侵略された東南アジアや、 イラクの人々にも共通する思いだろうと指摘した上で、 今や自衛隊が海外に出掛ける時代であるとも記し、 「過去の戦争を記憶すると同時に、平和を築くために何ができるのか、 考え、行動する必要があるのではないか」と述べている。 私も、宇都宮市民として、まったくその通りだと思います。

実は、この日の23面の文化欄に創立者の特別寄稿も掲載されている。 タイトルは、国際交流こそ「平和の道」 日中戦争のさなかに敦煌やシルクロードのロマンを語り聞かせてくれた 「恩師」檜山浩平先生(栃木県出身で小学校5年生の時の担任)の 思い出などを紹介しながら、文化交流や相互理解を進めていくことが、 世界の平和と安定の橋を構築していくことになるとの信念が記されている。 私も、地球人の一人として、この信念を共有していきたいと思います。