広島平和の旅

近藤 泉

◆8月5~6日、私と大学生の息子・中学3年の娘は、小金井市主催の「広島平和の旅」に参加することになりました。

わが市は1982年に「非核平和都市宣言」をしています。映画会や原爆写真パネル展などいくつかの非核平和事業の一環として、毎年15名の市民を広島の平和祈念式典に派遣し、新幹線代と宿泊費の半額を市が補助しています。

「核兵器廃絶と恒久平和を願うこと」を目的にしたこのような立派な事業があることを誇りにし、市民の大切な税金を使わせていただくことに感謝しながら、平和を祈る旅に行って来たいと思っています。

◆2000年に始めて広島を訪れた時は、その春に亡くなった愛しい母の名が慰霊碑に納められるのを見届けてきました。今回は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に母の被爆体験記を寄贈し登録されたものを自分の目で見て来ようと思っています。この体験記はこのウェブページ「論文・エッセイ」コーナーに載せて頂いています。

この平和祈念館は記念資料館近くに2年前に開館し、被爆者の証言ビデオ、広島市内の被爆前や直後の写真 、被爆直後の広島市内を撮影した動画が収蔵・展示されています。特に被爆者の体験記は10万編を超えています。母が壮絶な決意で原稿用紙に向かっていたの を知る私は、その数の多さに本当に驚きました。10万もの方々は一体どんな叫びを紙に残し、どんな思いを伝えたかったのでしょうか。

被爆者が体験した惨禍と平和希求の思いなどを国内外の人々、子どもたち、孫たちの世代へ伝えていくため継続して体験記を集めています。体験記は、広島・長崎の平和祈念館で公開しコンピュータで検索できるようになっているそうです。広島や長崎の平和祈念館にお出でになる方は、どうぞ母の名で検索をして みてください。(国立広島原爆死没者追悼平和祈念館公式ウェブページ参照)

◆母は、本人の記憶により爆心から1.8kmの松原町で閃光を浴びたとされています。地図で見るとそこはJR広島駅前になります。駅前というと、焼け焦げた 市電が骨組みだけになった光景が思い浮かびます。朝の通勤時間に満員であったはずの人々の姿は跡形もなかったと聞きます。半分日陰に立っていたとは言え、 母が生きていたことは奇跡としか言いようがありません。

広島の夏は焼けつくような暑さです。母が被爆したその熱い地点に子どもと共に立ち、その奇跡の意味を考えたいと思います。