今の日本で働くということ

わたなべ ひろし

最近帰りの電車で、まぁ10回に8回ぐらいの割合で見かけるひとがいる。帰りの電車といっても、7時頃から11時の範囲で同じ電車に乗っているわけではない。そのひとは網棚の雑誌を集めて回っているのだ。いつも雑誌の入った大きな袋を2つから3つ提げながら、視線を網棚に上げて、一心不乱に車内を歩いている。混んでいてもいっさいお構いなしだ。

そういえば、新宿や池袋の駅の周辺で、当日やせいぜい前日発売の雑誌をビニールシートか何かに広げて、一律100円で売っているオッチャンたちが増えたような気がする。僕も最近はこの「店舗」のお世話になることが増えてきた。網棚から集められた雑誌も、こういう形で売られることになるのだろう。もちろんこれも商品なので、網棚に残っていればどんな雑誌でも良いというわけではなく、手にとって一生懸命状態をチェックしていた。回収されること無く網棚に戻される確率は、僕の見た範囲では4割から5割と、なかなか品質には厳しいようであった。

生来の性根の卑しさもあるのだろうが、この雑誌回収のひとに限らず、近頃ひと様の仕事というか、生業がみょうに気になってしかたがない。でもこれは僕ひとりのことでは無いようだ。先日吾妻ひでおさんの『失踪日記』というマンガを読んでいてそう思った。

『失踪日記』の内容を簡単に紹介すると、仕事のストレスから鬱病になり失踪、路上生活者や配管作業員を経験し、最後はアルコール依存症で精神病院に隔離入院という、極めてハードな体験を軽いタッチで描いている。これに「過労死」と「自殺」(不謹慎ですみません)が加われば、今のサラリーマンをとりまいている「不安アイテム」が全て揃う。

この本が売れているという。ある書評誌によれば、自分のあり得る姿を投影し、怖いもの見たさで読んでいるサラリーマンも多いのではないかとあった。僕が網棚の雑誌回収をしている彼のことが気になるのも、これと同じことなのだろうか。

ここ10年ほどの間に労働市場の自由化(流動化)は、大幅に進んでいる。ここで言う労働市場の自由化(流動化)とは、就業機会の多様化ということもあるかもしれないが、ようするに景気・不景気といった世の中の動きに合わせて、雇用者が労働者を「自由」にできるということで、それを制度化したものが「派遣社員」であろう。

新聞によれば、大手スーパー各社のパート・アルバイトの構成比は77%に上るという。これはすごい数字である。400万人のフリーターが問題だとか言っているが、何のことは無い、そういう人たちの存在を前提として、多くの企業の仕組みが出来あがっているのだ。 フリーターと言われる人たちの生涯所得は、正規の従業員の4割から6割だそうである。

米国のクリントン政権で労働長官をつとめたロバート・ライシュは、1991年の自著の中で、これからの労働者を「ルーティン生産サービス」「対人サービス」「シンボリック・アナリスト」の3つに分けている。

「ルーティン生産サービス」と「対人サービス」は、単純なルーティン作業が中心の職種で、賃金は労働時間や仕事量によって決定される。必要とされるのは、読み書きと簡単な計算、信頼性、忠誠心、対応能力といった能力である。一方「シンボル・アナリスト」は、標準化された商品ではなくデータや言語、音声、映像表現などのシンボル操作を行なう、いわゆる「専門家」と言われるひとたちだという。

要するにライシュは、今後の労働形態は、大多数のルーティンワーク労働者と、ごく僅かの「知識」労働者に分れると言っているのである。僕は日本の雇用形態というか、就業構造は、前述のスーパー業界の例を見てもこの通り進んでいると思う。

今働いているこの仕事以外に、収入ややりがいなど、自分をもっと活かせる仕事が他にあり、その仕事と出会えるために常に自身の「市場価値」を高める努力をする必要があると声高に言われる一方で、もしかしたら網棚にある雑誌の回収や路上生活者は自分の明日の姿かもしれないというリアルな不安と、この両者の振り幅の中で日々の仕事に従事しているというのが、現在のサラリーマンの多数なのだろうか。しかもそのいずれにころぼうが、それは「自己責任」だというのだ。

こういうのって、働く側は肉体的にも精神的にもたまらないが、雇用する側にすれば非常に都合の良い環境なのではないだろうか。これが労働市場の自由化(流動化)を支えている背景である。

網棚の雑誌を物色する彼の姿を横目で気にする日々はまだまだ続きそうである。