エッセイ4 言葉と行動

木村 英亮

ロンドン地下鉄同時爆破事件のあと、テレビでブレア首相が、「イノセント・ピープルの殺傷」という言葉で、テロリストを非難しているのを見た。政治的目的のためにイノセント・ピープルを殺すことが許されないことはイギリス首相に言われるまでもないことである。ここでしっくりこなかったのは、それが、イラクを侵略し、文字通りイノセントなイラク人を殺している張本人の言葉であるからである。それは、世界の大部分の人びとに対して説得力のない非難の言葉である。

崩壊後の旧ソ連では、もと共産党幹部たちが大統領となって市場経済化を進め、あるいは資本家として活動することによって、ソ連の歴史を否定するば かりでなく、いまの言動の信頼性を失わせている。日本でも郵政民営化法案に反対と言いながら、解散をおそれて賛成票を投じた議員は、政治家として自己否定したことになる。たしかに、政治家にかぎらず、さまざまな条件のなかで言動を一致させることは、なかなか難しいことであろう。

研究者は、研究にもとづいて信じている通りに発言することに社会的存在意義があり、そのため大学教授は、他の仕事に比べ自由が保証されている。しかし、今日全体としては批判的立場は弱くなっているように思われ、またテーマを小さく絞って発言を限定する傾向がある。説明なしに見解を変えることもしばしばみられる。1960年代末の大学紛争のとき、大学教授の言葉と行動の不一致について、学生たちが非難、告発した。その後、「大学改革」などによって、 研究者の地位は低下し、学生の教授批判も少なくなった。

社会的には、これでは困るのではなかろうか。