戦後社会を支えたもの

わたなべ ひろし

日高六郎さんの新著『戦争のなかで考えたこと』を読んだ。

もし「戦後民主主義者」というものがあるとすれば、僕はこの日高さんと英文学者の中野好夫さんのふたりをあげる。しかしこのふたり、いわゆる戦後思想や平和運動の研究などで思いのほか言及されることが少ない。

数年前、NHKの特集番組を観たとき、日高さんは作家の徐京植(ソ・キョンシク)さんと対談をしていた。自分たち「在日朝鮮人」の存在をその視野 に入れることの無かった戦後民主主義思想というものに対して、非常に厳しい批判者である徐さんが、「戦後民主主義者」である日高さんに対しては、とてもリ スペクトしている感じが画面からも伝わってきた。徐さんはふたりのお兄さんが韓国留学中の1971年、スパイ容疑で軍に逮捕され、19年にわたって投獄さ れており、彼らの釈放運動に日高さんはそうとう尽力されたようだ。

僕が本書から学んだことは、戦後の日本社会を評価する上で、戦前・戦中と戦後の「断絶」と「連続」の問題をどう捉えるべきかということである。

日高さんは敗戦直前の1945年7月に、当時嘱託として属していた「海軍技術研究所」へ、「国策転換に関する所見」という報告書を提出する。それは、 「28歳の青年が、15年間にわたる日本の戦争時代を経験して、どのような認識と判断を持ったか」ということを、「遺書」のつもりで書いたものだという。

この「所見」の骨子は、「支那事変の根本的原因は、我が資本主義的経済体制の支那市場獲得要求にありたり」と断じた上で、国内体制の民主化と対外政策の非植民地化を提案している。

具体的には、「国内策」としては、(1)労働組合による企業管理、(2)八時間労働制と週休制の実施、(3)地主制の廃止と自作農の育成、(4)医療お よび教育の国家管理、(5)言論・集会・結社の自由を、「国外策」としては、(1)対「支那」友好関係の樹立を対外政策の根幹とし、(2)日本の経済権益 を「支那」民衆に返し、(3)台湾・香港は返還する、(4)延安政権の連立政府方式による「支那」統一を認める、(5)「満州」国は「満州」国人の自由自 治に一任する、(6)南方諸民族の自治独立を認める、(7)朝鮮を真に朝鮮人の朝鮮とするため政治的自治独立を認める、といったものであった。

これらの具体策を見れば、それは戦後日本の民主化政策と軌を一にするものであることが分かる。

ここで銘記すべきことは、日高さんが自身のそれまでの経験(人生)において培ってきたものにもとづき、自国の民主化と非植民地化の訴えを確信を 持って「遺書」のつもりで書き、負けるとはわかっていたがそれがいつになるかはわからない時期に、軍当局に対する根本的批判を伴った「国策の転換」を、ま さに軍そのものに提出したという事実であり、そして1ヵ月後に敗戦を迎へ、その後の日本の民主化と日高さんの提案が結果として重なるものであったというこ とである。

日高さんのなかでは、8月15日を待たずに、「戦後」は始まっていた。

日高さんのこのような思想は、彼ひとりの孤立したものではなかった。それを生み出した土壌が、戦前・戦中の日本社会においても存在していたのであ り、日高さん同様、結果として「戦後」を準備していた人たちは少ないながらもいたのである。本書は日高さんの経験として、具体的にそういった人たちやその ことを示すエピソードを明らかにしている。戦後日本を根っこのところで支えていたのは、このような戦前・戦中からの「蓄え」であったのだと思う。

しかしそれは巷間言われているような、「1940年体制」論とか、「総力戦体制」論が主張する、システムや体制の戦中と戦後の「連続」ということとは全 く別のことである。なぜなら、これらの諸論が戦中と戦後の連続性を中心に説くことで、この両者の間にあるべき「断絶」(つまり戦後の民主化)は、事実とし て過小評価されてしまうことになるのに対して、日高さんの場合は、戦前・戦中と戦後の連続性は重々承知したうえで、だからこそこの両者の間にあるべき「断 絶」(つまり戦後の民主化)を「意思する」(主体的に求める)ものであるからである。

意志を持って努力した当事者と、事後的・学問的に把握する研究者・観察者との違いということか。日高さんや中野好夫さんが、学問的に「研究対象」として言及されることが少ないのも、こういうことなのであろうか。

「私は戦後憲法によって(初めて)民主主義者になったのではない」という日高さんの言葉は、戦後の日本社会を評価する上でとても重要なことがらを含んでいると思う。(なお『日本史講座 第10巻 戦後日本論』(東京大学出版会 2005年)所収の進藤榮一さんの論文を参照しました。)