エッセイ5  講義における「花」

木村 英亮

ピアニストのチェルカスキーがテレビ番組のインタビューで、ピアニストは多いが芸術家は少ない、また演奏は母から、教わったのでなく導かれた、人を教えることはできない、と答えていた。ピアニストとしての自信とともに、教育には芸術的要素があることを語ったのであろう。分野は違うが、能には「花」がないと、技術だけでは観客をひきつけられないという世阿弥の言葉を読んだことがある。

講義を長くやると、質は充実しても新鮮さが失われ、マンネリ化する。こうなると、友人と雑談しながらテレビを見るという生活に慣れている学生に静かに講義を聞かせることは難しい。講義は、能や演奏会とは異なるが、内容だけでは成立しない。内容が第一であるにしても、それだけでは足りない。それを世阿弥は「花」と表現したのであろう。かって、若い講師の張りのある声が、満席の大教室の開いた扉からキャンパスを歩いている私まで響いているのを聞き、このようにできればと思ったことがある。

また、横浜国大の市民講座で、画家の故国領経郎(美術の教授)の講義を聴いたとき、即席の自由なお話のようであったが、後でテープレコーダーを片付けながら私に、講義はいつもテープにとって何回も聞きなおしているんだと話された。なかなかできないことである。

講義は、活字にした文章と違って、一回きりで消えてしまうものであるが、学生や聞き手の記憶に長く残ることもある。通学のバスで、某先生の講義は崩壊していると学生が話しているのを耳にしたこともある。恐ろしいような冷や汗の出ることである。