60周年の広島に思う ―母の足跡(1)

近藤 泉

2000年に母が亡くなり、国から交付されていた「特別被爆者手帳」を地元保健所にお返しする時、私は手帳のすべてのページをコピーしました。母が広島で「確かに」被爆し「被爆者」として生きぬいてきた事実を残しておきたかったからです。

そして今回の広島の旅で、60年前の8月6日に母が魔の閃光を浴びた地点をはっきりさせ、どの道を逃げ惑ったかを想定し辿ることで、母の記憶の中にしか存在しないたった一人の個人的な体験を現実に起きた事実として記録し残したいと思いました。

母は当時の記憶から、爆心から1.8キロの「松原町」で被爆したことになっており、被爆者手帳にもそのように記録されていました。

(母の体験記より)
駅の右側にずらりと並ぶ旅館を見つけ、(やれやれ)と、その中の一軒に入って行った。
(中略)
其処を出た私は何とかして休みたいと思い、もう一軒の旅館に入ろうとして厭になった。
(駅に戻れば、何とかなるかもしれない)
軒先を離れた私は、夏の日差しを右半身に受けて、道路に立った時、マグネシウムに似た閃光が、パッと私を包んだ。
火の海に、投げ込まれ骨まで焼けてしまうかと思う程の熱さだった。
「お母さん、熱い!」
悲鳴をあげた私は、瞬間、ぢりつ。と焼かれて、
きりきり舞をして体を大きく反らすように道路に叩きつけられた。

JR広島駅を含む駅前大橋までの駅前通り東側の一区画が松原町です。現在の駅前はバスと路面電車の停留所の大きなロータリーになっています。当時の 広島の地図はまだ調べていませんが、被爆後少し歩いてから駅前大橋らしき橋を渡っていることから、母が駅前右側に訪ねた旅館街は、今はこのロータリー東側 の広島東郵便局やダイエーなどの大きなビルになっていると思われます。広島は有名な商業の街で駅前には商人を泊める旅館が軒を連ねていたと、生前母はよく 話していました。

母は一軒だけ旅館を訪れ駅へ引き返そうとしているので、駅に近い広島東郵便局付近で被爆したと考えられます。

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今回8月6日の昼過ぎ、母が被爆したであろう広島東郵便局(南区松原町2-62)前に立ちました。次女と二人、熱い日差しに目が眩みました。8月6日は、この60年間一度も雨が降らないと聞きます。

松原町の住居表示を写そうと探しあぐねていた時、カメラを下げた私の姿を穏やかな笑顔で見つ めている老夫婦に気づきました。母が被爆した松原町を訪ねて来たことをお話しすると、福屋デパートの裏に慰霊碑があることを教えて下さいました。

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母は命の恩人となる青年と出会い、駅前の橋に向かって逃げます。 その橋-駅前大橋のたもとには今、福屋デパートの立派なビルが立ち、ビルの裏手は各方面からの広島駅行きバス終点降車所で、ビルと川との間は芝生に数本の桜が植えられた小さな公園になっています。慰霊碑がひとつ立っていました。