エッセイ10 教員と学生

木村 英亮

井上 靖の『おろしや国酔夢譚』に、主人公光大夫らがイルクーツクのキリル・ラックスマンの家をはじめて訪ねた場面がある。井上はそこを次のようにまとめている。「日本の漂流民たちは一人残らずラックスマン家を訪ねたことに満足を感じた。ラックスマンその人は気難しくもあり、わがままでもあるようだったが、言うことにも、することにも飾りというものはなかった。それが光太夫にも仲間たちにも、何とも言えぬいい印象を与えた。」(文春文庫版、169ページ)

最近読んだ木村幸雄「臼の上に座る人」(『中野重治の会会報』第5号、2ページ)に、募金のために中野重治を訪ねた学生時代の思い出がある。口座に振り込むからと現金を渡さず、口座番号を記載した広告を出し賛同者が振り込むようにすれば、学生も勉学の時間を失わなくてすむ、運動をもっと合理的に運ぶことを学ばなければならぬと話し、「臼の上に座って、そういう話をする中野重治の風貌姿勢は、古風で頑固なものに見えた。しかし、話の中身は、新鮮かつ柔軟で合理的であり、目を開かれる思いがした。」と結んでいる。

ラックスマンや中野の言動には、対人関係についてのひとつの態度がある。大学の仕事も人が相手であるが、その人は、学生に重点を置くべきであると思う。携帯やインターネットの時代、人間関係の常識も変わっている。たとえば教育実習校・指定校訪問など、ありがた迷惑になっているのではないかと感じることもある。もう少し合理化し、研究・教育の時間を確保した方がいいのではないであろうか。