「イラク」抜きの平和論

わたなべ ひろし

フリーライターの永江朗さんが、自著である『批評の事情』の文庫化に伴い、その「あとがき」で、「9.11」に関連して次のように書いている。

同時多発テロの犠牲者は気の毒ですが、しかし、パレスチナではイスラエル軍によって毎日のように非戦闘員が殺されているのだし、キューバでは長期にわたるアメリカの経済封鎖によって人々は困窮しています。不幸なのはアメリカ人だけではない。(中略)正直いって私は、同時多発テロの犠牲者だけ特別に同情したりする気になれません。もちろん「ざまあみろ」とはいわないけれども、「そういうこともあるか」という程度なのが正直な気持ちです。そしてそれは、アメリカの同盟国である日本に住む私や私の妻や友人がテロの標的にされても「そういうこともあるか」と考えるしかない、ということでもあります。私たちはそういう時代に生きている、ということをあの事件は考えさせてくれました。

先ごろのロンドンでの「連続爆破攻撃」(僕はあれをテロとは言わないことにしている)の報道に接した際、僕が感じたことは永江さんと全く同じであった。ただ永江さんとのニュアンスの違いが若干ある。「私たちはそういう時代に生きている」のは確かかもしれないが、それはとりもなおさず僕たち自身が選択したものなのだということである。もし「日本に住む私や私の妻や友人がテロの標的にされても」、それは「アメリカの同盟国」としての道を選択した僕たち日本国民の責任だということである。

例えば今回の衆院選挙結果などを見たら、国内的にはイラク問題など全く争点にもならなかったが、国際的には「アメリカの同盟国」としてイラク派兵への道をあらためて支持するということを日本国民が表明したものとして受け取られるに違いない。だってイラク状況がこれだけ混乱している中での派兵当事国の国政選挙なのだから、それが争点にはならなかったなんて国際的にはきっと考えられないことだと思う。

もちろん僕自身、彼等の攻撃対象などになりたくはない。しかし僕たちは現在の消費生活を享受するために、数ある選択肢の中からイラクへの派兵を選び覚悟の上で「参戦」したのであるから、「日本に住む私や私の妻や友人」が彼等の攻撃対象になることは、全く理にかなった正当な行為なのである(極めて残念なことではあるが)。なぜなら、ブッシュ米大統領が言うように、これは「戦争」なのだから。そしてもちろん彼等の「爆破攻撃」は、イラク派兵に反対している日本人と、賛成している日本人とにえり分けて行なわれるわけではない。

僕はイラクにおける現在の戦争状態とそこに日本の軍隊が参戦しているという事実、そして日本国民全員が、「私や私の妻や友人」がいつ彼等の攻撃対象になるかわからないという形で日常的にその代償を負っているという事実を前提にしない反戦や平和の言論は信用しない。

月刊誌の『第三文明』が、解散総選挙決定直後の10月号で総選挙についての「緊急特別企画!!」を組んでおり、そこに政治学者の河合秀和さんが見開き2ページほどの談話を載せている。河合秀和という人は、例えばイギリスにおける政治哲学の泰斗である、I.バーリンの日本版選集の編訳者であり、日本におけるリベラリズムの最良の一人であると僕などは思っていた。

その河合秀和さんによると、「自民党は財界に支えられ、左翼政党は労働組合に支持を得ていた」のと同様に、公明党は「家庭の主婦たち」に支持された政党だという。なぜなら彼が公明党の講演会に招待された際、役員も誘導係もお茶をだしてくれたのも女性だったからそう考えるというのである。そして公明党に望むこととして、河合さんは福祉と共に「平和の推進」をあげ、公明党は平和を愛する女性を支持基盤にしている政党であるのだから、平和のために貢献できることは多いと述べていた。

いったいこれは何かを言ったことになるのであろうか。

河合秀和のような「立派」な政治学者が、与党である公明党と極めて関係の深い月刊誌の、解散総選挙決定直後の特集記事において、平和について語った文章の中に、イラクのイの字も触れられていないのである。

日本の偉い学者がこんな文章をヘラヘラ書いている間にも、イラクの状況は深刻化し、日本の派兵責任も抜き差しならない大きなものになっていっているのだ。そしてその代償を負っているのは、繰り返すが日本国民全員の「日常生活」そのものなのである。