ロシアの「新しい」アイデンティティ

宮川 真一

10月15日、16日の両日、ロシア・東欧学会2005年度(第34回)大会が福岡県の西南学院大学で開催された。今回の共通論題は「スラブ・ユーラシアの新しいアイデンティティ」であり、「ロシア」、「CIS」、「文学」、「中・東欧」それぞれのアイデンティティの模索、再編が論じられた。私も「自由論題Ⅰ」の部会で、現代ロシアの公教育における正教教育について報告する機会を頂戴した。多くの貴重なコメントや質問を寄せていただくとともに、思いのほか高く評価していただき恐縮している。報告ではロシアのナショナル・アイデンティティについて、比較文明学の視点から論及した。

ソ連共産党の解体、ソ連消滅、冷戦の終焉によりロシアは再び世界史の舞台に登場した。帝政時代におけるロシアの統合原理は「専制・正教・民族性」であり、ソ連時代にその原理は「共産党一党独裁・共産主義イデオロギー・ソビエト人」に置き換わった。ソ連解体後、ロシア連邦の統合原理はいまだ定まっておらず、この国はアイデンティティ・クライシスの状態に陥っている。

かつてロシア文明は、ビザンツ文明の周辺文明として出発した。10世紀末から11世紀にかけて、キエフ・ルーシは大公ウラジーミル一世の治世に蛮族の状態から文明へと這い上がった。この時期に東方正教という高度宗教を国教として採用し、それまでの異教と置き換えて文明統合の基礎的価値、基礎的制度とした。また、ビザンツ文明を受け入れたことでキリスト教的法意識とビザンツ的法規範が浸透し、従来の氏族的風習や慣習法を徐々に凌駕していく。さらにビザンツ様式の建築や美術を受け入れ、ギリシア文字を借用してロシア文字を創出するのである。

17世紀末になると、ピョートル大帝は全面的「欧化」政策に踏み切った。ロシアは世俗化した西洋文明を受容せざるを得ず、今度は西洋文明の周辺文明に転落した。それ以来、ロシアの150年におよぶ無自覚な「欧化」を初めて根本的に自覚させたのが、1836年に発表されたチャアダーエフの『哲学書簡』である。これは「ロシアとは何か」を主題とし、ナショナル・アイデンティティの問題をロシアに突きつけた。そして1840年代における「西欧派」と、ロシア土着派としての「スラブ派」の論争が起こるのである。それ以来、ロシア人とは何者か、ロシアの民族的特殊性は何か、ロシアの世界における使命とは何かが問われ続けてきた。

西欧派とスラブ派の論争は、ソビエト時代には影を潜めていた。そして、ソ連が消滅した今日、封じ込められていたこの論争が形を変えて再燃するであろうことをハンチントンは予測している。彼によれば、現代世界では文明への帰属をめぐって国家が「引き裂かれる」事態がありうるのであり、最も重要な引き裂かれた国家はロシアである。神川正彦によれば、19世紀〈近代〉に〈中心文明〉にのし上がったヨーロッパ文明は決して唯一の普遍文明ではない。今日の世界では「〈中心文明〉としてのヨーロッパ文明の〈脱中心化〉と、したがって同時に〈周辺文明〉としての非ヨーロッパ文明の〈脱周辺化〉」が進行しているのである。

ナショナル・アイデンティティとはネイションへの帰属意識であり、ネイションの自己規定でもある。ポスト近代と呼ばれる現代世界では、ミクロレベルでは家族が、マクロレベルでは国際社会が脱近代化していくなか、国民国家という近代文明の所産も変動を免れることはできない。政治的側面を重視し、統合を志向した国家ナショナリズムは動揺している。とともに、文化的側面を重視し、分離・独立を志向する非主流派民族のエスノ・ナショナリズムが覚醒した。そして、人種的側面を重視し、排除を志向する主流派民族の極右ナショナリズムが台頭するのである。さらに、脱近代化は再聖化も促した。世界各地で宗教的ナショナリズムが形成されつつある。現代世界におけるナショナル・アイデンティティは多元化、再聖化という変容を遂げつつある。そして、これらナショナリズムのどの要素に自己を同一化するかによってナショナル・アイデンティティは異なったものになるため、複数のそれが矛盾・葛藤・分裂を起こすことは珍しくない。

現代ロシアが選択しうる国家的理念としては、次の4つが提示されている。

  1. 自由主義や民主主義の原理に基づく国家的理念。ここでは、内政次元では自由民主主義、外交次元では大西洋主義、宗教次元では政教分離、民族次元では国民主義となる。
  2. ソ連時代への郷愁から生ずる「ソビエト国家」への回帰志向。内政は共産党一党独裁、外交は帝国主義、宗教はマルクス・レーニン主義、民族はソビエト人を志向する。
  3. 東西に跨るロシア独自の文明哲学であり、復古主義・大国主義的なユーラシア主義。内政は国家主義、外交はユーラシア主義、宗教はロシア正教重視、民族は多文化主義を採る。
  4. 革命前の帝政ロシアを理想視する復古主義的な国家的理念。内政はツァーリ専制、外交は帝国主義、宗教はロシア正教、民族はロシア民族主義である。

現代ロシアのナショナル・アイデンティティは様々な次元において「ユーラシア主義」「帝政ロシア」に傾斜しつつある。21世紀を迎えたロシア文明は、西洋化から土着化への傾向を強めている。この土着化はグローバリゼーションという西欧近代文明の挑戦に対するロシア文明の応戦であり、ロシア文明の発するSOSでもある。そして、周辺文明としてのロシア文明は脱周辺化し、中心文明としての西洋文明から自立しつつあると私には思えてならない。この地域の「アイデンティティ」が日本においても熱く論じられる所以である。