「人間を知る」ということ

わたなべ ひろし

昨年の11月、当研究所の日本社会研究部会において、都立の知的障害児の施設で働いている明田義男さんに報告をしてもらった。そのときの報告で僕が 一番印象に残ったのは、「世話をする側とされる側という関係が、ある時点を境に変わりました。子供たちの世話をしているつもりが、私の方が世話になってい ることに気がつきました」という彼の言葉であった。「そう気づくことによって、自分が変わったように思います」彼はこう続けた。先日、政治社会学者である栗原彬さんの新著『「存在の現れ」の政治―水俣病という思想』を読んだ。この本の最初の方で、栗原さんは次のような水俣病者の方の「思想」を紹介している。

「漁師であり水俣病者の杉本栄子さんは、水俣病は『のさり』だという。『のさり』とは、向こうからやってくる賜物のこと、また受難のこ と。水俣病のおかげで人間のことを知ることができたという栄子さんにとって、受難は同時に贈り物であり、絶望は絶望のままに魂の救済につながっていく。」

自分にとって「受難」である水俣病が、同時にこの人にとっては、その「おかげで人間を知ることができた」「賜物」だと言うのである。これを読んだとき、僕は先の明田さんの言葉を思い出した。彼も子どもたちの「おかげで人間を知ることができた」ということなのであろうか。

栗原さんは、今から5年前『証言水俣病』という本を編集している。この本は1996年に水俣病公式確認から40年目に開催された「水 俣・東京展」における、水俣病者10人の講演を集めたものである。この本には講演者の略歴が、それぞれの冒頭に添えられており、これを読んだ当時は、内容 もさることながら、これらの略歴から「人間を知ること」の恩恵を受けたような気がする。お二人ほどここにあげてみる。

荒木洋子 1933年生まれ。37年、生後間もない弟が原因不明の疾病で急死。その後、妹、弟も相次いで死去。54年、父発病。この頃、自身も発病。57年、父認定される。64年、結婚。65年、父が激症型で死去。69年、水俣病裁判第一次訴訟に遺族原告として提訴。

大村トミエ 1933年、現在の水俣市湯堂生まれ。53年、結婚。流産・死産を繰り返す。夫の死去後、父親、自身も発病。72年、半身麻痺となる。74年、父死去。

この略歴を見ていて、自身や肉親たちの発病と死去に挟まれて出てくる「結婚」や「流産・死産」の文字に、そのとき目を引き付けられた。例 えばここにある「激症型」の水俣病の症状というものは、本書を読んだ限りでも生半可な苦しさではないようだ。そういうものに自身も発病し、身のまわりの親 兄弟姉妹も発病し、ある者は苦しみながら亡くなっていき、生き続けられたとしても完治することなど無く、一生を苦しむことになる。そういう中に当り前のよ うになされる結婚や出産という人の生の営み。10名全ての略歴が、皆が皆こんな具合なのである。

僕はここから、「人の生」というものの力強さみたいなものを教えられた気がする。そしてそのことで、随分と励まされたことを憶えている。

話しは飛ぶかもしれないが、例えば現在戦時下にあるイラクなどにおいても、人々の生活というものは、同じような強さをもって営まれているに違いない。そしてそのことにも、僕は随分と励まされるのである。派兵当事国の人間としては、まことに申し訳ない話しではあるのだが。