母の原爆体験記「いのち」

近藤 泉

私の母は、大正11年の今日、東京で生を受けました。昭和20年8月6日広島の爆心から1.8キロのところで被爆し、生き地獄をさまよいました。23歳の時のことです。

その後結婚し、子どもを3人もうけますが、特別被爆者として死の恐怖と子ども達への後遺症に悩み、失意の底に沈んでおりました。また、自分の足下に苦しむ果てしない数の人々を助けることができずに、己れのみが生き延びたことを責め続け、毎夜広島の光景を夢に見、朝起きると、自分の足首に助けを求める人々のしがみつく手の感触が生々しくそこにある、と常々申しておりました。けれど、訪ねてくる記者たちには一言も体験を語ることができませんでした。

その後、人間主義の平和運動に巡り合い、母は寡黙だった人生を大きく変えることになりました。自らの「被爆という宿命」を「平和を訴える使命」ととらえ、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継ぐ決心をしました。

母は、神奈川県の高校生の平和集会で体験を語ったり、大学新報に体験を基にした「生命の尊厳について」の小論文を投稿、特別賞を受けたり、創価学会の様々なセミナーで、また身近な人たち、子ども達に平和を訴え続けていきました。さらに、請われて、住まいのある横浜金沢区能見台のコミュニティー誌や母校の女子大の同窓会報に体験記を連載しました。地道ではありますが、母の平和への戦いは一人ひとりの心の中に堅固な平和の砦を確実に築き続けたと信じます。この砦は、私と二人の兄、10人の孫達にしっかりと繋がりさらに未来に向かって連なり続けることと思います。

母は、2000年4月27日に安祥として逝きました。戦いの20世紀を見届け、21世紀の平和のために使命を果たさんと生まれ変わるべく……。亡くなる直前まで友人に平和を語り、私の活動を励まし続け……。

私は1998年から、地元中学の「人生の先輩に学ぶ」という総合学習の「戦争体験に学ぶ」という授業の講師をお引き受けしています。母の原爆体験と平和への戦いを語ってきました。そして戦争体験のない私や、もっと遠い存在の中学生達は、何をしたらよいのか、何ができるのか、を自問しながら語り続けております。

また、昨秋は公民館の「高齢者学級」卒業生による自主サークル「生きがいの会」からお声が掛かり、『戦争を体験した』方達に『戦争体験のない』私がお話をさせていただきました。この時に合わせて、かねてから手をつけなくてはと思っていた母の原爆体験記をワープロ打ちすることができました。

アフガン侵攻のとき、ある政党の新聞に亡き母の叫び『今すぐ憎しみの戦いをやめよ』(趣意)を投稿し、声の欄に掲載されました。今また、この母の体験記が平和への戦いの『武器』となればと願っております。

仮名遣いや漢字は極力母の書いたものに準じております。ぜひ若い世代・子ども達にもお読みいただきたいと思いますが、むづかしい読み方もあるかと思います。よろしくお願いいたします。

2004.3.10 母の生誕の日に。

本文(永石和子『いのち』—広島被爆体験記)はPDFファイルでご覧いただけます。