正教文化の基礎

宮川 真一

いまロシアの公教育では、宗教教育をめぐる熱い闘いが繰り広げられている。1990年初頭、ロシア教育省はロシアの学校にキリスト教の倫理と道徳を強調するカリキュラムによる宗教学習の導入を決定した。1992年12月、ロシア教育大臣とアメリカ共同使節団執行委員会は「意向に関する議定書」に調印した。そこでは共同使節団を「キリスト教社会プロジェクト」と記述し、「教育と社会の精神的刷新の分野における協力を発展させるため」、両者はロシア公立学校の道徳と倫理の課程とカリキュラムを発展させることが記されている。やがて、ロシア教育省はロシア正教会との提携を進展させる。1997年から1999年にかけて、ロシアのいくつかの地域では州行政機関の資金で公立中学校に正教の教義を教える正規の科目が導入され始めた。1999年2月、モスクワ総主教庁の提案に沿って、教育に関する世俗・宗教委員会が教育省内に創設された。また1999年8月には、「ロシア連邦教育省とロシア正教会モスクワ総主教庁との協力に関する契約」にフィリポフ教育大臣とアレクシー二世総主教が署名した。

2002年初頭、アラ・ボロジナ著の教科書『正教文化の基礎』が出版された。これには「ロシア連邦教育省とロシア正教会モスクワ総主教庁との統一行動に関する調整評議会推薦」の公印が押されている。2002年10月22日、フィリポフ教育大臣は科目「正教文化」の模範的な教授法計画の要約を付与した書簡に署名した。この書簡は地方の教育局にも発送され、ロシア各地の学校で「正教文化の基礎」が集中的に導入され始めたのである。グレブネフ教育次官も2004年1月、中学校の必修プログラムに「正教文化の基礎」コースを導入するべきとの考えを明らかにした。2月3日の記者会見でフィリポフ教育相は、中学校に選択科目としての正教教育を導入する方針を再度表明した。

こうした教育省の政策により、中等教育における正教教育の導入に対する賛成 派と反対派が形成されることになる。賛成派には、当事者であり推進者であるロシ ア正教会、ロシア教育省を別とすれば、地方・連邦権力機関の一部、ロシア・ナショ ナリストの社会・政治組織のいくつか、正教徒または金銭的に利害関係を有する教 師の小グループという主として3つの勢力が挙げられる。反対派は主に次の4グルー プから構成される。新しい負担を重荷と感じる児童。児童への宗派教育を望まない 両親。道徳についての自身の見識をもつ大多数の教師。リベラルな社会-政治組織 であり、彼らは社会制度においてロシア正教会の影響が強まることはロシアの民主 的発展に対する脅威であり、他の宗教・宗派の権利侵害であるとみなす。人権組織 に所属するポノマリョフとイハロフは、ボロジナの反ユダヤ主義を糾弾し、彼女に対する刑事上の取り調べを開始させた。この件に関してモスクワでは10以上の裁判が行われたのである。

「世論」基金が2004年12月にロシア全土で実施した調査において、学校では世界「宗教史」と「正教文化の基礎」のどちらを教えるべきかを尋ねている。およそ半数の回答者がどちらも教えるべきであるとし、「宗教史」のみが1~2割、「正教文化の基礎」のみが1割弱、どちらの科目も教えるべきでないとする人が1割程度であった。さらに、「宗教史」または「正教文化の基礎」を必修科目にすべきとする人は2割、選択科目が5~6割、どちらも教えるべきでないとする人が1割程度となっている。これら調査から、「宗教史」と「正教文化の基礎」の両方を選択科目で教えることを世論は支持しているようである。
2005年9月21日、ロシア科学アカデミー世界史研究所のチュバリヤン所長は、宗教史に関する学校教科書が完成したことを明らかにした。フルセンコ教育科学大臣は以前から児童が全ての世界宗教を学習することを保証しており、9月初頭にはロシアの学校における『正教文化の基礎』教育のテキストを取り替える方針を表明している。これを受けてロシア正教会の外郭組織である正教市民同盟は22日声明を発し、これは偉大な正教大国ロシアの正教市民に対する挑戦であると訴えている。しかし教育科学相は10月4日、テキスト『宗教史』が本年中には承認され採択される見通しを語った。こうしたロシア教育科学省の政策を歓迎しつつ、新たな年もこの問題から目が離せないように思われる。

この1年、私の拙いコラムに目を通して下さった皆様に厚く御礼申し上げます。

(拙稿「現代ロシアの公教育における宗教教育―『正教文化の基礎』コース導入をめぐって―」ロシア・東欧学会第34回大会自由論題Ⅰ報告、西南学院大学、2005年10月16日。)