コミュニケーションの市場化

わたなべ ひろし

たまに休みの日曜日、2才になる息子をベビーカーに乗せて近所を散歩などしていると、見知らぬお年寄りがすれ違いざま、息子に笑顔をみせながら「こんにちは」と声をかけてくることがよくある。

僕の中にある、コミュニティとかコミュニケーションの、最もピュアなイメージがこれである。

数年前から「社会関係資本」(social capital)という言葉を耳にするようになった。米国の政治学者であるロバート・パットナムが提起している術語とのこと。前々からこの言葉が妙に気になっていたのでインターネットで検索してみると、有るわあるわ、特に政府系シンクタンクや大手「総研」のHPなどにこの言葉はひしめいていた。それらのHPからこの言葉の内容を推し量ってみると、「信頼、規範、ネットワークといった人と人とのつながりを『資本』として考える」というもののようだ。そして、こういう人と人とのつながりである「信頼」や「規範」に支えられていない「経済」は脆弱なので、これら「社会関係資本」の涵養が必要だと、どのHP上でも判を押したように述べられていた。

僕はパットナムのテキストを読んでいないので、彼がどういう意図でこの術語を提起しているのかは知らない。ただしこの言葉をさかんに持ち上げている、政府系シンクタンクや大手総研の意図は明確である。それは「信頼、規範、ネットワーク」といった、本来無形である人と人とのつながりを、「日本経済の市場機能強化への統合戦略」(ある総研の報告書タイトル)の下、「社会関係資本」として有形化し、取り込んでいこうということなのだ。

まぁようするに、子供の散歩のとき見知らぬおばあちゃんに挨拶されることや、日頃の近所づきあいといったものを、「市場機能強化」のための有用なツールとして、それこそ「予算」を組んで「再編成」していこうというわけだ。これって、今後の教育の使命は、単なる知識の詰め込みではなく、「国を愛する心」の涵養であるとして、そのためのカリキュラム編成や宗教本まがいの副読本を配布するのと同じ発想だ。

そもそも「信頼」や「規範」といった人と人とのつながりというものを、「社会関係資本」などという言葉で取り出し、「市場機能強化」のために「有効に」活用していこうなどという考え方そのものが、それこそ「信頼」や「規範」といった人と人とのつながりを擦り減らしているのだということに、なぜ気がつかないのであろうか。

挨拶や近所づきあいなどというものは、なにも「資本」として「市場化」されようと思って残っているわけではない。人間社会にとって必要だから、残るべくして残っているのである。こういうものを「文化」という。

「市場機能の強化」などという謳い文句によって、現在ますます拡大している「市場機能の危険なまでの肥大化」=「市場の一人歩き」というものを、ギリギリのところで抑制してくれているのが、むしろこれら無形のコミュニケーションやコミュニティ的なものなのである。それなのにこれに手を突っ込み、「社会関係資本」などという形で、市場化のため、無神経に再編成などされたりしたら、それこそいっぺんで堰を切ったように「市場の暴走」は加速することになるに違いない。

なんだか守旧派の文化保守主義みたいな論調になってしまった。

ところでここまで書いてきて気が付いたことがある。

僕たち日本社会に住む者は、戦後60年、無形のコミュニケーションやコミュニティ的なものとして、つまり「文化」として、戦後日本特有の「平和」価値を育み育ててきた。上で人と人とのつながりとして言及されていた「信頼、規範、ネットワーク」というものは、そのまま戦後の「平和」価値の重要な核心として当てはまるものである。この両者は非常に親和性があるものなのだ。

「憲法」に象徴される「戦後民主主義と平和」を虚妄とし、改憲することで戦争の出来る「普通の国」にしようとしていることと、コミュニケーションやコミュニティ的なものを社会関係資本として市場化していこうとしていることとは、密接に関連しているのではないか。

こういうところからも、平和を支える社会的基盤は侵食されていっているのである。