エッセイ 36 怒りについて2

木村 英亮

ローマ時代の哲人セネカは、怒りを手段として利用してもいいだろうか、と問い、いったん怒りという感情に捉えられると理性による抑制ができなくな る、とし、「怒りは自らを抑えることもできず、品位も汚し、親しい間柄を忘れ、怒り出せば執念深くて一途に熱中し、道理にも忠告にも耳を閉ざし、つまらな い問題にも興奮し、公正真実を見分ける力はなく、言わば、自らが押し潰したものの上に砕けて散る破滅に似ているのである」(セネカ、茂手木元蔵訳『怒りについて』、岩波文庫、1980,9-10ページ)。われわれは、他人を恐れさせるようなことなく、悪口、嘲笑なども気にせず、長くない人生を忍ばねばならないと、ストアの哲学を説いている。

しかし、怒りには私憤と公憤とがある。現代のわれわれとしては、耐え忍ぶばかりでは困るのではないかと思う。

辛淑玉は『怒りの方法』(岩波新書、2004.)で、日本に多い「まあまあ、ここはひとつ大人になって」、「世間を騒がせる迷惑な奴だ」というような加害者を免罪するような発言を批判し、押し潰されて破滅しないように、怒る方法を考えようと提案し、自己主張や説得の方法について語る。 この本のあとがきまで読んで、学生時代に見たアメリカ映画「十二人の怒れる男」を思い出した。ヘンリー・フォンダ扮する主役が、残り11人の陪審員を説得し、父親殺しの容疑のかかった少年の無罪評決をかちとるまでを描いた映画である。

説得するためには、相手の怒りまでふくめ、深い人間理解が必要である。これは教員にも欠くことのできない資質であろう。