新春講演会 上田 哲(元衆議院議員・参議院議員)

事務局

自衛隊イラク派遣・憲法改定とマスコミ

2004年1月11日
かながわ県民センター711号

ueda.jpg

2004年は日本の戦後半世紀を転換する最大の分岐点.となる。すでに地滑りは起こっている。ただ立っているだけでは地滑りの現状追随になってしまう。今この国に住んで、生きている人は是非自分のメカタの分だけ意思表示し行動していただきたい。私も憲法9条を貫くということにすべての力を凝集する決意だ。9条を守るなどという後ろ向きの言葉では今この国に生きていくことにはならないのだ。

きょう与えられた課題はイラク派兵問題である。まさに憲法とマスコミの最大の課題もそこにある。問題はしかしイラク派兵のポイントがマスコミに出てきていない。議論は「イラクが安全かどうか」「アメリカ追随かどうか」に集中している。自民と民主は対立しているように見えるが「安全なら派兵賛成」なのであり、対米追随だけでない日本自身の派兵目的に議論が及んでいない。私は「自衛隊がイラクに行くのでなく、イラクが日本に上陸するのだ」と言っておきたい。その表現の意味を時間いっぱい述べていきたい。

具体的な事実に着目しよう。

イラク派兵の基本計画が発表されたのが2003年12月9日で、19日に航空自衛隊の先遣隊の派遣命令が出て、海上自衛隊と陸上自衛隊の待機命令が出された。まさにその19日。あわせて重要なことが三つ閣議決定された。ミサイル防衛網システム(MDシステム)導入、武器輸出禁止三原則の解禁、防衛計画の大綱の改定である。

今日はこの「防衛計画の大綱」の問題を中心にお話ししたい。一般の人は「大綱とはどんな文書か」とほとんど知らないのが現状であろうし、マスコミも大きくは取り上げていない。大綱とは、実は日本の軍事方針の基本を示すもので具体的に兵員、航空機、艦船、装備の数量が別表で明示されている大事なものだ。これが28年ぶりに改定されるのは大変なことで、それがイラク派兵の意味と重なる。大変革なのである。今までの経過を追って説明したい。

防衛計画の大綱は、1976年10月29日に決定された。この年は戦後の日本の軍事体制の最も大きな分水嶺だった。前年の1975年4月30日にはサイゴンが陥落し、あれだけ大軍とカネを投じた米軍の敗北と撤退が始まった。ちょうどこの時期、日本では倍々と膨らんだ軍事力が4次防の終了で完了した。引き潮の米軍と上げ潮の日本とが新たな接点を模索する時期に当たっていた。日本の軍事力増強と憲法第9条との関係の転換点でもあった。これを前にさかのぼって辿ってみたい。

現憲法制定段階は言うまでもなく「日本は軍隊をもってはいけない」ということに徹していた。今から思うと信じられないエピソードを紹介しよう。1946年6月22日第90回帝国議会衆院本会議において、吉田首相は、「憲法九条二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります。従来近年の戦争は多く自衛権の名において行われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争また然りであります。故にわが国においては、いかなる名義を以てしても交戦権はまず第一自ら進んで放棄する。放棄することによって全世界の平和の確立の基礎をなす」と述べている。

6月29日の衆院本会議では、共産党の野坂参三の「自衛戦争は正当である。自衛のためには軍備を持つべき」との質問に対して、吉田は「国家正当防衛権による戦争は正常なりとせられるようであるが、私はかくのごときを認むることが有害であろうと思うのであります(拍手)。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われることは顕著な事実であります。故に正当防衛権を認むることがたまたま戦争を誘発する所以であると思うのであります。…正当防衛権による戦争がもしありとするならば、その前提において侵略を目的とする戦争を目的とした国があることを前提としなければならぬのであります。故に正当防衛、国家の防衛権による戦争を認むるということは、たまたま戦争を誘発する有害な考えで…ご意見のごときは有害無益」と主張している。

また1949年11月8日の第6回衆院本会議では、「わが国の安全を保障する唯一の道は、わが国は非武装国家として列国に先んじて自ら戦争を放棄し、軍備を撤廃し、平和を愛好する世界の世論を背景と致しまして、世界の文明と平和と繁栄とに貢献せんとする国民の決意をますます明らかにいたしまして文明世界のわが国に対する理解を促進することが唯一の道と私は考えるのであります」との施政方針演説を行っている。

だが1950年7月14日の施政方針演説で大きく転換する。「今なお全面講和とか、永世中立とかいう議論がありまするが、これはたとい真の愛国心から出たものであるとしても全く現実から遊離した言論であります」

この少し前に朝鮮戦争が勃発していて、7月8日にマッカーサーから警察予備隊の設置命令が出された。吉田の豹変はマッカーサーからの警察予備隊の設置命令の1週間後である。警察予備隊はまもなく保安隊に変わり、そして自衛隊に変わるのである。

この後、日本の軍事力は、第1次から第4次に至る「防衛力整備計画」によって急成長した。1次防は1958年から60年度までで総額は4532億円、2次防は62年から66年で1兆1500億円から1兆1800億円、3次防は67年から71年で2兆3400億円、4次防は72年から76年で4兆6300億円で、まさに倍々の成長を遂げた。4次防の水準を中曽根防衛庁長官は「大学生から社会人のレベルに達した」と満足した。

しかしこの時期までは、憲法第9条の精神が、国会論議に生きていたのも事実である。振り返れば上田哲はその節々の重要な防衛論争をじかに体験してきた証人と言われる。その論争を述べる。

1973年3月22日の予算委員会で、私は当時の最新鋭戦闘爆撃機F4EJファントムに空中給油装置が装備されていることを「無限に航続距離が伸び憲法の専守防衛に反する」と指摘した。3週間に及ぶ激しい論争となった。事実、F4EJファントムの一番機、2番機は米本土から無着陸で飛来した。激しい追及に対して政府は次々と苦し紛れの嘘をついた。この装置は空中でなく、地上で行うものであり、緊急の際に給油時間を短縮させるものであると述べた。私たち予算委は九十九里基地まで視察に行った。後で暴露したのだが、目の前で行って見せた地上での空中給油装置を使った訓練はこの日初めてやって見せたものだった。この地上給油に必要なアダプターは前日小牧基地にたった1台あったのを借りてきたもので、その製造元の米国ポンプ会社はすでに倒産していた。こうしたウソを暴かれて防衛庁は「これは日本の記録はないがアメリカで行ったものだ」と言ったり、またうそがばれて「別な機種であった」と嘘に嘘を重ねた。ついにどうしようもなくなって田中角栄首相は4月10日の予算委員会で、①ファントムから空中給油装置を取り外し、②空中給油機は買わない、③空中給油訓練はしないとの3点を政府の公約と宣言した。世界で一番多くの128機ものファントムを保有していた日本は、その全機の背中から空中給油装置を取り外した。

このことは3年前まで防衛庁に≪上田タブー≫と言われて残っていた。そのときまで朝日新聞は「論壇」で私の主張を載せたが、導入となるともはや沙汰止みとなった。防衛庁はつい最近、日本は空中給油機を4機導入した。

さて、この論争の勝利は、1973年の時点までは、憲法の専守防衛が国会論争で優位に立つことができたことを物語っている。そしてそれはその最後の時代だった。つまり、その裏では同時に平和憲法や日本の防衛について大きな転換期が迫っていたのだ。私自身は当時の社会党が非武装中立論を呪文のように唱えるのみでほとんど政策化する努力をしないことに反発を感じていた。そして非武装中立への途中経過として軽武装中立政策を取ってはどうかと提案したりしたが受け付けられなかった。このような中で私は倍々の軍事力増強を何とか現状で抑えられないかと焦点を絞った。

この論争が結実し、1973年2月1日、増原恵吉防衛庁長官は「平和時の防衛力」を具体的な数量を以って示した。内容は4次防そのものであったが、これは野放図な防衛力の増強を与野党で現状で抑えようとする画期的なシビリアンコントロールの果実であった。増原恵長官の示したものは次の通りだ。

陸上自衛隊 5個方面隊 13個師団  18万人。
海上自衛隊 5個地方隊 4ないし5個護衛隊群 約25万トンないし28万トン。
航空自衛隊 3個方面隊 8個航空空団(3個航空方面隊と1個航空混成団 約800機)

しかし、これは社会党の「結局は自衛隊承認となる」という反発で10日後の2月11日、田中首相が異例の全面取り消し発言をし、幻となった。しかし、この流れは続き、1975年4月はサイゴンが陥落し、1976年10月29日、防衛計画の大綱として決定される。

注目すべきは、この大綱の数字は、増原長官が示した数字、4次防の数字と同じものであることだ。そしてその一週間後の11月5日に政府は防衛費のGNP1%枠を決定した。これらの考え方は日本がこれから越えてはならないとされる防衛力の上限を示すものだった。坂田道太防衛庁長官はその決定に当たっての閣議で「1%とせず将来のため1%程度としてほしい」と強調したが全閣僚が「1%で十分。野党、国民の無用な反発は避けるべき」と反対して1%となった。

それというのも、大綱の考えた方は次のようなものだったからである。

いわゆる軍事体制には三つあり、一つは戦時体制、二つは緊急体制、三つは平時体制である。日本においては戦時体制や緊急体制は想定しないから大綱は平時体制を想定する。基盤的防衛力と名付けられた。

内閣法制局は自衛のためならば、核兵器も航空母艦も原子力潜水艦も持つことはできるが、政策として持たないのだというようなどちらにも顔を立てる解釈をしてきた。この場合の説明では基盤的防衛力は戦時体制から核や空母、原潜を除いたものが緊急体制であり、平時の体制である基盤的防衛力はそれよりぐっと小さいものでいいということになる。だから基盤的防衛力とは戦争をしない国の体制であった。大綱はぎりぎり、その線を守るはずのものであった。

しかし次第に、軍事力は1%枠に近づき、一方、米軍の後退の中、軍事派の自主防衛論の圧力が高まる。

象徴的なのは、シーレーン密約計画である。これもまた私が前面に立った。私が予算委員会で「日米軍部間で秘密裏にシーレーン共同防衛計画が進められている」と暴露したのは1977年3月8日である。三木首相、坂田防衛庁長官は寝耳に水であった。「シビリアンコントロールから許されないこと」「制服同士の密議は許さない」と強く言った。シーレーン密約計画は今で言えば海上自衛隊のインド洋出撃だが、これをペルシャ湾から石油を運ばねばならない日本がその航路を守るものとされた。インド洋の不安から平時の三分の一の物資輸入の国民生活レベルなど真面目に議論して見せたりした。

このとき三木も坂田も「許さない」といっていたのはウソではなかった。日本がそんなことができとは思えないという感覚だったろう。しかし、急変した。まさに急変した。政府は「制服同士が秘密裏に協定するのは許せないが、これを政府間の交渉に上げて緊密な日米軍事緊密化を図ろう」と方針変更をするのである。

この劇的な変化を防衛事務次官夏目晴雄氏は「あのときが日本防衛政策の転換点だったのです」と明快に振り返る。外圧、内圧がさまざまに加わった。それをすべて詳らかにする時間はないが、つまり、憲法と政治の力関係は明らかにここで潮目が変わったのである。

たとえば、来栖統幕議長が「日本防衛のためには自衛隊指揮官は現行の自衛隊法を超法規的に犯して軍事行動を命じなければならない」と発言したのは78年7月19日、福田首相は7月24日、栗栖を解任したが、その翌日から今に続く「有事立法」の研究を指示した。野党にほんの少し気を使って見せたが、はっきり憲法は劣勢になったのである。

そして78年11月28日、公式に日米の政治レベルで「日米防衛協力の指針」(ガイドライン)を決定した。条約でない。政府間の約束だから、何でもできる。憲法は空洞化された。

こうなると、国会や憲法の歯止めは利かない。

81年5月8日には渡米した鈴木−レーガン共同声明で、「日本は周辺数百カイリ、シーレーン1000カイリを自分の庭先としてアメリカとともに守る」と高々と謳ってしまった。これは戦車を特車と言いくるめていた政府が日米安保条約を集団自衛権に基づく軍事同盟だと認めたことになるのだが、鈴木は自分の発言の意味を理解せず、伊東正義外相は辞任した。ちなみに、日米安保条約を公式に軍事同盟だと認めたのは1984年2月21日、衆議院予算委員会で上田質問に中曽根首相が答弁したものだ。54年7月1日、自衛隊発足以来30年振りである。朝日新聞は翌日朝刊トップで報じた。

1981年は防衛元年と言われる。防衛白書の中で、初めて自衛隊が守るのは「国家体制」であると明記された。国民ではない。国家体制を守ると書かれた意味は大きい。軍隊は何のためにあるかを明確にしたのだ。愛国心の強調が始まり、日の丸君が代の法制化も話題になり始める。

さらにそのガイドラインが根本的に書き改められてのが、1996年4月17日の橋本−クリントン共同声明である。安保条約再定義と称せられた。集団自衛権行使へと踏み込んだものであった。

そして97年9月3日にガイドラインの改定が行われた。ワシントンで米側国務長官、国防長官、日本側外務大臣、防衛庁長官の4者で握手し記者会見して終わった。調印などはない。しかし、この改定は日本武力が日本≪周辺≫を守るという名目のもとに、インド洋でもどこにでも、集団自衛権を行使して、アメリカと一心同体の軍事戦略を展開するというものである。私はこれを第3次安保改定というべきだと考える。

ついに2003年5月15日、有事関連法が衆議院をあっという間に通った。イラク戦でブッシュが勝利宣言をした2週間後であった。記名投票でなく、起立で9割が賛成した。民主党もである。参議院は6月6日だ。アメリカでは、日本はついにルビコン川を渡ったと報道された。実はここで日本の「戦争をする国」への法的整備は完了したのだ。有事関連法は来栖発言以来、軍事派の求め続けてきたものである。しかも国民保護法制は先送りである。そんなことより強固な軍事体制の確立が政権の急務である。イラク派兵はその一里塚に過ぎない。

だから、その派兵を決定した12月19日、同時に防衛計画の大綱改定を閣議決定したのだ。ミサイル防衛網システムシステム導入、武器輸出禁止三原則の解禁とともにいよいよ、戦時の体制へと移るのである。ここにイラク派兵の基本目標が存在するのだ。

日本の軍事集団が初めて海外のイラクへ行くということは、軍事力がイラクへ派兵されるということではなくて、イラクの状況が日本に上陸するということである、と先に私は言った。24万人の自衛隊のうちの何百人かがイラクへ行き、後の人間は専守防衛であるのか。後の自衛隊は同じ目的を持たない別の集団であるのか。マスコミも自衛隊に守られ、命は保障しませんと言われながらも、第二次大戦の時のように従軍取材をするではないか。「給水活動のためサマワ入りした自衛隊は」という冠つきの1日中のニュースに覆われる日本は次第に「人道支援、復興のために出かけた自衛隊」を認める風潮に傾く。無事を祈る家族に日の丸の旗で送られながら勇躍戦地に行く兵士たちを見つめさせられる日本国内は人道と戦争の混在の中で大きな転換点を乗り越えつつある。まさにイラク状況が日本を埋め尽くすのである。

イラクが安全ならば、自衛隊を出すという議論もおかしい。安全ならば、自衛隊が行く必要があるのか。自衛隊を海外派兵することが自己目的化しているのは自民党も民主党も同じである。アメリカの言いなりになるなという議論は一理、事情を言い当てているが、十分な理由ではない。アメリカの言うとおりになるだけでここまで無理することはない。

では、ここまで暴走する日本政府の内在目的は何か。

きょうの課題でそこまで詳述する余裕はないが、一口で言えば、自民党政権の危機感である。小泉内閣のポピュリズムに大きく陰りが見える。財政経済の慢性失速、かつてない社会不安、政治不信、自民党政治がどこまでもつのか、イラクで犠牲者が出ても多分愛国心で押し切れるだろうが、アメリカの景気不安やドル高が100円に振れるようになれば、経団連は残っても、中小企業はもたないだろう。民主党の力量から見て、民主党に脅威を感じる意味が少ないのは救いだが、だから自民党政権が安泰でないのは明らかだ。そのとき、日本そのものが収拾つかない状態になる。スーパーで消費税が10%以上になった状態、年金が全く成り立たないことが明らかになった状態。医療費が高すぎて病院へいけない状態を考えて、まだ政権を語るにはどうしたらいい。「経済財政諮問会議」などという新型大本営が全く日本の将来にカルテを持っていないのだ。これ以上の白昼の怪談はない。

こうなると、一途に強権国家体制を構築するのは保守政治の常道だ。敵を外部に設け、ナショナリズムを昂揚する。ともかく、総選挙で絶対多数を得た今、今年を勝負所と見るのは当然だ。かくて2004年1月1日、小泉首相は靖国神社に参拝して日本軍事強国化のスタートを切った。最高司令官が自分の軍隊を戦地に送る必勝祈願だ。8月15日では遅いのだ。「初詣で」と言ったではないか。過去の戦没者への追悼ではない。国会でも、イラク派兵は軍事「開国」だと宣言した。君主制を掲げ、忠良な軍隊を主柱とし、個人より国家を愛し、そのために犠牲を惜しまず文句を言わない従順な国民を作り出すことである。政府はイラク派兵に取材制限を申し出た。これに全力で反論しないマスコミの姿勢を多く語る要はない。

強権国家体制の主幹は「防衛計画の大綱」である。すでに有事法制は完了し、平和時の防衛力「基盤的防衛力」を基軸としてきた大綱を「戦時体制の大綱」に変えるのである。もう一度、先に挙げた1976年の大綱の兵員、装備表を見てほしい。これが変わる。ミサイル防衛網システムシステム導入が書き込まれ、大型兵器が登場する。武器や軍事技術が世界に輸出され、イラクでもどこでも日本防衛のためでなくても強い軍隊を送る国となる。手順はこの後、「安全保障基本法」の制定となり、防衛庁は国防省となる。国軍の認知は国内のさまざまな企画で彩られよう。憲法9条の改定は2005年1月、衆参に正式に設けられた「憲法調査会」がその方向の報告書を提出する。2004年はそのための地ならしの大事な年である。

もう、ここまで来ていることを国民は知らないでは済まされない。今までは知らなかった。知らないうちに今や日本は世界で第2位の軍事費大国になった。選択しよう。日本の実力を以ってすれば、軍事力によらない国際貢献は十分に可能である。

安全保障に絶対はない。いや日本のことではない。アメリカも例外でない。アメリカの世紀は終わろうとしていると私は思っている。現に日本の貿易は対米より対中のほうが大きくなっているのだ。ならば日本は、絶対に戦争をしない国という政策を貫いて、たった一つ世界にそれを実行する国民的挑戦をするという挑戦はどうか。少なくともこの半世紀、日本はそれに成功してきたではないか。自民党政権の失政の尻拭いにその国際的信認を捨てることはない。イラク出兵を導入口に日本が変わる必要はない。

前に述べたように、すでに地滑りが起きている大地に立っているわれわれ。ただ立っているだけなら地滑りの加担者になる。皆さん、私たちは、この国に住んでいるのなら、生きているなら、何かをしなくてはならない歴史的現実に向き合っている。

政治は変えられる。われわれが主権者であるなら、変えることが出来るのは世論である。死ぬか生きるか、それはイラクで、ではない。この日本でのことだ。

uedachoushuu.jpg