平和主義における信条倫理と責任倫理

遠藤 美純

戦争と平和の問題を前にして、人はいかに振る舞うべきなのだろうか。とりわけ戦争に直接関わらない現代日本のような平和な社会において、何を基準として戦争に対する態度を決めればよいのだろうか。

ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』において、人として行うべきことがどのような基準で選択されるのかを、信条(心情)倫理と責任倫理という二つの対立する基準から論じている。信条倫理とは自らの信条を貫くことを第一とする考え方である。一方、責任倫理とは自らの行為の結果こそ第一とする考え方である。信条倫理においては、価値とはその信条の純粋さにあり、行為の結果の責任は純粋な行為者本人にではなく、不純な他人に見出される。一方、責任倫理においては、価値とはその結果いかんにしかなく、自らの行為の結果が予見できた以上、その責任を他人に転嫁できないと考える。平和主義に引き寄せて考えるならば、信条倫理は純粋に一貫して平和を訴え続けることこそを目的とし、責任倫理は結果としての平和を確保することこそを目的とする。

この二つの倫理を考慮すれば、限定的にせよ何らかの平和を目的とする人々にとっては、自らの責任ある立場というものにおいて、心情倫理に導かれつつも、責任倫理に基づく行動の選択が必要とされることは広く認められるであろう。もちろん、戦争を容認するのが責任倫理的な行為であり、戦争に反対するのが信条倫理的な行為であるわけではない。信条倫理に基づいて戦争を起こしたり容認したりすることも、責任倫理に基づいて戦争に反対することもありうるからである。

その意味で、ある戦争に対していかに処すべきかと言う問題と、信条倫理と責任倫理との対立とを混乱させてはいけない。反戦か戦争容認かを巡って相手をやり込めるような闘争を行うのではなく、平和の実現のためにいかなる戦略をとるべきなのか、その平和は誰のどのような平和なのかについてまず考えるべきなのである。もちろん、そもそも責任倫理と言っても、ある行為が本当にある結果をもたらすのかどうかというしばしば無視されがちな重要な論点もある。

戦争と平和の問題への対処を考える際、いわゆる反戦派と容認派の対立がしばしば不毛なものになるのは、双方が自らの目標と戦略に関して自覚的でないがゆえに、同じ議論の土俵に立てないことにある。自らが何を考えているのか、相手が何を考えているのかをまず整理しなければ、平和を目指すために協力し合わなければならない人々同士が対立してしまう。そんなところで争っていては、何が本当の問題なのか見失っていると言われざるをえないであろう。

さて、このように為すべき行為を考える際に責任倫理が優先される一方、信条倫理についてはいかに考えらるのであろうか。 マックス・ヴェーバーは、信条倫理家に対しては手厳しく、綺麗事だけで済まされないこの世の中にあっては、無責任でロマンチックな法螺吹きだとさえ言っている。しかしその上で、誰しも精神的に死んでいない限り、信条倫理と責任倫理の対立に引き裂かれながらも、自分にはこうするよりほかないという状況に立たされうると言う。

「精神的に死んでいないかぎり、われわれ誰しも、いつかはこういう状態に立ちいたることがありうるからである。その限りにおいて信条倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両々相俟って『政治への天職』をもちうる真の人間をつくり出すのである。」

平和な日本において、遠い戦争はどれだけの問題として受け止められるのであろうか。身近に差し迫る問題に比べて非現実的な問題ととらえられることもあろう。にもかかわらず、「戦争はいけない」との信条倫理に従い、自ら引き受ける苦悩というものがある。これは人間的に純粋なものであり、人々の魂を揺り動かすものである。私はこの苦悩こそが平和主義の連帯をもたらす共感を生み、平和への礎となるのだと思う。そして、人がそのような苦悩を担う限りにおいて、信条倫理と責任倫理は絶対的な対立を抱えつつも、むしろ互いに支え合い、平和への確かな道をつくり出していくのではないだろうか。