平和主義の可能性と限界に関するメモ ーヨーロッパにおける戦争と平和を通して

遠藤 美純

平和主義における責任倫理と心情倫理

責任ある立場においては、心情倫理に導かれつつも、責任倫理に基づく行動の選択が必要とされる。しかし、戦争を容認するのが責任ある考えで、戦争に反対するのが心情的な考えとは限らない。心情倫理に基づいて戦争を起こしたり容認することも、責任倫理に基づいて戦争に反対することもありうる。

戦争と暴力の問題化

戦争や暴力を問題視するかどうかは時代や地域、立場によって大きく異なっている。その意味で、先進国などは特殊な恵まれた状況にあるが、その特殊な状況での観点を普遍的なもの・当然のものと措定すると、異なる考え方に対して説得どころか対話さえも困難になりがちである。

ヨーロッパにおける戦争と平和

二つの世界大戦を経て、ヨーロッパ諸国は平和への希求からその統合を進めたが、その一方でヨーロッパ外では多数の戦争を行なってきた。ヨーロッパの諸国家は平和主義ゆえに戦争をしない面もあるとはいえ、戦争ができないがゆえに平和主義的振る舞いをすることにも注意すべきである。平和主義は高邁な目的としても単なる政治的手段としても用いられる。

キリスト者における戦争と平和

力ある宗教・思想は、力あるゆえに社会において責任的立場に立つことになる。その意味では社会の安定のためには(極めて限られたものとはいえ)一定の暴力の行使も認めなければならなくなる。しかし、権力に近いほどまたその権力が大きいほど、実際の暴力や戦争に巻き込まれることは少なく、正当性のない暴力や戦争をも容認しがちである。

キリスト者における正戦論

正戦論には、戦争を制限する論理がかえって戦争を容認してしまうという倒錯がある。ただし、正戦論も、極端に不正な戦争を阻止しようとし、平和主義を現実的に展開するという点では一定の役割を果たしうる。正戦論そのものよりも、その論じ方やそれを論ずる者こそ問題とされるべきである。

宗教的暴動と、共同体の基本的価値

極端な暴力の発露は、突発的な異常現象とは限らない。暴力は、それを振るう者が所属する共同体に認知されると、より残酷なものとなりがちである。このような暴力をより破壊性の低いものとするには、「逸脱者」を鎮圧することよりも、そのような「逸脱者」を排除しようとする共同体の基本的価値を変えるべきである。

ヨーロッパにおけるナショナリズムと「先進国の平和」

ナショナリズムはヨーロッパにおける軍事力を強力に支えもしたが、その強力さは返って戦争を困難にしてもいる。先進国同士の戦争が少ないことはナショナリズムに負うところが大きい。

この先進国同士の戦争が起れば世界は破滅されかねないが、その発端は発展途上国への「安全」な戦争によって開かれる。日本がそのような戦争に巻き込まれるかどうかは日本国憲法第九条の存在にかかっている。

第一次大戦における社会主義と平和主義

第二インターナショナルのような平和を推進しようとする組織には、戦争の危機に直面した際、その組織そのものの存続が危機に陥る可能性が生じる。

実際に組織を作りあげ、運営している活動家は、平和という究極的価値を認めながらも、身近な問題を重視するがゆえに組織の防衛を優先する傾向にある。一方、比較的に恵まれた立場にある知識人(あるいはその予備軍)は、究極的理想を掲げうるとはいえ、身近な問題とは距離を置きがちで、それゆえ組織の防衛には無頓着である。

いずれかが正しいとの単純な判断は早計であろう。双方には双方の論理があることを認めることから議論を始めるべきである。

世界大戦と平和主義

平和主義が反って戦争の危機をもたらすとの論がある。こういった論には特に戦間期の平和主義がナチスの台頭を許し、第二次大戦の勃発を促したと主張するものもある。

しかしながら、戦争の勃発については当然さまざまな要因がある。ナチスの台頭や第二次大戦勃発の諸要因を単純化し、その主たる要因を平和主義に求めてよしとすることは安易に過ぎる。

さらに、平和主義が戦争を起こすという論は翻って、想定される敵国に平和主義があれば戦争は起こりえなかったとの矛盾する結論を導くのである。

戦間期における平和主義者

実際に戦争が勃発したときに平和主義がなしうることは相当に限定的なものになる。「狂気の時代」においては、高名な平和主義者さえも戦争や暴力を認めざるをえない状況におかれた。

その意味で、平和主義の運動が成果を残せるのは、なによりも戦争が起きる前である。現にさまざまな活動がこれまでも行なわれてきたが、その基礎となるのは党派を越えた平和主義の連帯とその拡大であろう。

軍事的介入の正当性と正当化

極端な暴力を阻止するために、一定の武力行使が必要とされることはあったし、今後も可能性としてはある。これは隣人愛が正戦を要請する局面である。

しかし、そのような極端な状況に陥るまでの過程に目を配れば、それが不可避のものであったとは必ずしも言えない。そのような状況に陥ったがゆえに不可避のものとされたり、不可避のものとされるがゆえにそのような状況に陥ったりする。重要な問題は紛争当事者以外にもある。

紛争という問題を幅広く捉えていくことが必要である。その意味で、紛争において「悪」と認定されるような一方の当事者の声にも耳を傾けることが重要である。