「ネジレは正さなければならない」という意識

わたなべ ひろし

2006年に年があらたまっても、僕は昨夏の衆院解散総選挙のことをずっと考えている。

しかしそれは、小泉自民党が圧勝した理由とかそういうことではない。

そういったことではなくて、僕がずっと考えているのは、あの選挙が持つ社会意識的な意味とでもいったものである。郵政民営化法案が参議院で否決され、小 泉首相がすかさず「民意を問う」として解散総選挙に打って出(あのときの記者会見は「圧巻」だった)、「小泉劇場」といわれるような選挙戦の結果、小泉自 民党が圧勝した、あの一連の出来事が、日本国民の意識に何をうえつけたかといった、そういうようなことである。

このような観点からあの選挙を振り返ってみるとき、最も印象に残っているのは「ネジレ」という言葉と、その使われ方である。

この「ネジレ」という言葉は、主に選挙戦前半、頻繁にテレビや新聞の報道で使われていた。例えばいくつか例を上げてみる。(なお記事の文章は要約)

衆院解散の原因を作った参院自民党の「造反組」を賛成派に変えなければ、再び郵政法案をめぐって同じ混乱が繰り返される恐れがあり、衆参の「ねじれ解消策」が衆院選の大きな論点になりそうだ。(毎日新聞 2005年8月25日)

自民党秋田県連は、「造反議員」野呂田氏推薦する方針を確認した。自民党本部が公認候補を「刺客」として決定した場合、県連と党本部がねじれの関係になるのは不可避だ。(毎日新聞 2005年8月17日)

解散・総選挙 政治のねじれ、解消の好機だ
岡田克也民主党代表が政府案の批判だけに終始したのは、党内に労組系議員など民営化反対派を抱えるためだ。民主党もそんな党内のねじれを解消して初めて、政策を通じて有権者が選ぶ政権選択選挙の土俵が整う。(毎日新聞 2005年8月9日「社説」)

参院否決の法案を衆院解散によって民意を問うのも「ネジレ」なら、自民党内の郵政関連法案反対議員を支援する県連と党本部の関係も「ネジレ」だし、野党第1党の民主党の中も民営化の可否をめぐって「ネジレ」ているという。

これらの記事に共通しているのは、「ネジレは正常な状態ではないので、正されなければならない」というトーンである。

そして有権者は、選挙を通して「ネジレ」たものがスッキリと見通しのよいものに正されていく様子をその目で見ることになった。つまり、小泉自民党の圧勝と いう選挙結果により、自民党内の「抵抗勢力」は追い出され、民主党の党首も「小泉チュルドレン」である前原誠司氏にかわり、郵政関連法案も衆参共に多数で 可決されるという具合にである。

以上のような、解散・総選挙に伴う一連のプロセスから、僕たち日本国民に醸成された「意識」とは、以下のようなものであったのではないだろうか。

「ネジレた状態はよくないので正すべきである。→○○と△△はねじれた関係にある。→それ故、○○と△△のねじれた関係は正されなければならない。→自分たちの投票行動の結果、このネジレは見通しのスッキリしたものとして改善された」

この○○と△△のところには何でも入るところがミソである。

そして小泉自民党が次にターゲットとする「ネジレ」とは、もちろん「憲法と安保・自衛隊」ということになろう。

僕の記憶では、この「ネジレ」という言葉に特別な思想的意味あいを付与したのは、加藤典洋『敗戦後論』(1997年)である。

この本のメインテーマは、日本の「戦後」にある「ねじれ」を明らかにすることである。そして筆者が「戦後」にある「ねじれ」の最たるものとして指摘してい るのは、「戦後憲法の手にされ方と、その内容の矛盾」ということ。つまりいかなる「武力による威嚇又は武力の行使」を認めないとうたっている「平和憲法」 そのものが、「原子爆弾という当時最大の『武力による威嚇』の下」、連合軍総司令部により「押しつけられた」という「矛盾、自家撞着」である。

僕は今まで、「だから我々日本国民は、戦後憲法の抱えているねじれを国民投票なり、改憲なりすることでスッキリ正し、けじめをつけなければならない」と いうのが、加藤さんがこの本で主張していることだと思い込んでいた。しかし今回読み返してみて、彼が言っているのはそういうことではないと考えるように なった。

加藤さんは、「戦後というものを考える上で、その原点にあるねじれをもっと自覚し、私たちひとりひとりが、そのことを直視し受け止めなければいけない」 ということを言っているのである。それが出来て初めて、僕たちは主体的に「戦後」と向きあうことができるようになると言うのだ。

加藤さんは次のように書いている。

「きっと、『ねじれ』からの回復とは、『ねじれ』を最後までもちこたえる、ということである。そのことのほうが、回復それ自体より、経験としては大きい」

安直な対応で、「ネジレ」にスッキリ見通しをつけることが、「戦後」の解決なのではないし、終りなのではない。

「ネジレ」ているように見えるのは、それだけの理由があることなのである。